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秋葉山三尺坊(あきはさんさんじゃくぼう)


◎日本の火坊大天狗の筆頭。
◎天狗経にうたわれる日本48天狗の36番目。
◎74人の眷属がいる。七十五膳御供の儀式がある。
◎狗賓堂の天狗番付における序列=東の前頭一段目4枚目。
(※西の前頭一段目4枚目は「肥後阿闍梨」)
『秋葉山略縁起』
「それ諸仏・諸菩薩の度生化益善巧方便は極まりなし、ここに東海道遠江国周智郡犬居村大登(だいと)秋葉寺の縁起を尋ねるに、人皇44主元正(げんせう)天皇の御宇養老2戊午年、行基大師諸国遊行の時、此山に登り給へ、山頂の杉ノ木を以て、聖観世音・十一面観世音・勝軍地蔵(しょうぐんじぞう)三菩薩の尊像をきざみ給うて、山頂永く衆生現世安穏・後生善所(ぜんじょ)の誓主たらしめんとおぼして安置し給ひ、此の山草創し開基となり給ふ。げに行基大師常に度生の念深かりきも(むべ)なるかな、その因地は大聖文殊菩薩の再来なり。その由来は天竺婆羅門僧正相見(しょうけん)の時にいちじるし、詳しくは古き草紙に見えたり。心地観経にも文殊師利(もんじゅしり)大聖尊者三世諸仏をもって母となすと。十方如来の初発心は皆これ文殊教化の力なりと云々。
然る時はこの山の本尊は大聖文殊菩薩の再生、行基大師手沢の観世音(くハんせをん)なり。殊更この菩薩の利益は、62億恒河沙の諸の菩薩を礼拝供養して得る所の福徳の利益も、この観世音(くハんせをん)菩薩を礼拝供養して得る所の利益も正にひとしければ、などか信仰帰敬せざらんや。
殊に当山の守護神正一位三尺坊大権現と申し奉るは観世音(くハんせをん)菩薩の垂迹権化にて広大慈悲の聖観(せいくハん)、本地の観世音(くハんせをん)大士と異なる事なし。
他念なく一心に信仰帰敬の人は、其れ願ふ所によって、第一に弓箭刀杖(きゅうせんとうしょう)の難(のが)れ、第二には出火類焼の災難をのがれ、第三には大水に沈没するの難(のが)、第四には悪風吹き散らしの難(のが)れ、第五は一切口舌(いっさいくぜつ)の難(のが)れ、第六は悪鬼毒蛇の難(のが)れ、第七は杻械枷鎖(ちゅうかいかさ)の難(のが)、第八は陣中衆怨の難(のが)、第九は一切の病難(のが)、第十は呪詛毒薬の難(のが)、第十一は沙汰嗔論(しんろん)に勝ち、第十二は雷電の難(のが)、第十三は短命無福の難(のが)貧瞋痴(とんちんち)の三毒多き人消滅せんと念ずれば、すなはち滅す。又男子・女子を求める者には福徳智恵の男子誕生、微妙(びみょう)の女子授け給ふ。
然るに此の神の由来は、(もと)信州の生まれ也。御母常に観世音(くハんせをん)を信仰し給いしが、ある夜の夢に観世音(くハんせをん)菩薩、三十二応身の中にて迦楼羅身を現じ給ふと見て、懐妊(くわい人)し給ひ。ほどなく福徳智恵の相あるやんごとなき男子誕生あれば御父ななめならず悦び給ひ、そのかみ希有の(きざし)にて生れ給ひし子なればとて、六、七歳にて出家せしかば、大学(だいがく)無双の阿闍梨となり給ふ。
そののち年月をへて越後国蔵王堂に十二坊あり、其の第一を三尺坊と言い、その坊のあるじ()となり給ふ。此の時に不()三昧の法を十七日の間に八千枚八千度(八千茎支木(きょうしぼく)を焼いて一座とす、八千度は八千座也)執行し満ずる(あか月)、焼香の中に火炎(くハゑん)燃へ上り、烏形両翼(うきょうりょうよく)にして、左右に剣索を持ちたる相現ぜしかば、一法は成就したり、我身(すなわち)本尊とならんと一心に観念をなし給へば、煩悩業生死の過患(くハげん)を滅尽してたちまち飛行自在の神通を得給ふ。しかる所へ一つの白狐出現せしかば、(すなわち)此の白狐にのり、何国に(しかる)もとどまらん所にわれ住して度生(どしょう)利益(りやく)もっぱらにせんと誓ひ給ひ、虚空(こくう)を飛行し給ひしに、今の秋葉山に白狐とどまりしかば、(ここ)を安住の峯と極め給ふ。其の時空中に声ありて、以種(いしゅ)種形(しゅぎょう)(ゆう)(しょう)国土(こくど)()(だつ)衆生(しゅじょう)の文聞こえければ、誠にわれは観世音菩薩の化現(けげん)たる事托胎(たくたい)母夢(ぼむ)空空中(くうくうちゅう)の音声とかれ是(かれこれ)符合すれば、(いよいよ)うたがふ所にあらずとみずから本地(ほんぢ)を感じ給ふ。
其頃は養老二年行基開基より九十年後にて、人王(じんのう)五十二主嵯峨大王の御宇大同四己丑年の事也。
そののちまた三尺坊尊、弘仁二辛卯年諸国に遊化して、あまねく衆生縁を結ばんとて、峯々(ミねゝ)岳々(たけく)虚空を飛行(ひきょう)しし、あらゆる名山・大川・諸国を巡り給ふ。その間四百六拾余年をへて、人王九十二主伏見院の御宇(ぎょう)永仁二甲午歳八月中旬、本の山中に帰山ましまして神と化し給ふ
またこの山を大登(だいと)と号する由来は、南海の汀よりせんくに登り来りて、山の軸際に至り五十町を登る。この標相は仏地にいたるの入路、十住十行十回向十地昇進し修し登り、階級四十二位を修するの儀、上八町は四方四隅の菩薩文殊・普賢・観世音・彌勒頂上 (すなはち)八葉の蓮華台仏位を表するものなり。また秋葉寺と号する意趣は、上古この山に水なきかりけるゆへ住僧なげきて、観世音菩薩三十三身化現(ならびに)守護神へ祈誓しぬれば、三尺坊観世音眷属天龍鬼神感應(かんのう)ありて、山上震動雷電し、一夜のうちに西北のすみにあたりて清水わき出たり。時の人歓喜踊躍(ゆたく)して水中を見れば、いさぎよく白き玉二つあり。これ雲龍頷下(かんか)の玉なり。また蝦蟆(がま)壱匹せなかの上に秋葉の二字をいただきおよぎ来たる。これによりて寺を秋葉と号す。龍の玉はいま寺の宝物となるあり。蝦蟆(がま)は則水底に入る。
それのみならず、彼の清水のほとりに寛永年中山婆(さんば)出現して(はた)(おる)、それよりこの水をはたおりの井となつく。そのおりたる布に青銅十疋添て住職に贈る。その銭はいま寺の宝銭とす。(はた)は住僧のねはん衣とす。誠にふしぎの異水なる故に、大旱(だいかん)の時、この井をかえ留乞をすれば、はたして((あめ?))ふるしるしなからずといふ事なし観世音三尺坊(ならびに)龍神かんずる所の名水なり。
秋葉山縁起(ゑんぎ)大概かくのごとし。
正縁起并に宝物等、信玄公(しんけんかう)一乱の時、兵のために焼失し、只三尺坊権現(こんげん)宮・本地観世音堂ばかり残てあり。今の宝物等は堂社におさめ置ゆへに(さいわい)のこれるもの也。甲州勢堂社を焼き払わんとて、数度火を掛けれども、毎度屋の上より白水流れ出でてやけず。火に少しこがせる屋根のひわだ今に残りてあり。見る人火ぶせ鎮護の神徳度生(どしょう)化益(かえき)の方便仰がざる者なし。」
観世音御縁日  十八日
三尺坊御縁日  廿四日
霊宝(省略)
享保二七月                 遠州犬居邑 秋葉寺」
(※『秋葉信仰の根元 三尺坊』所収の文章を、漢字・送り仮名・ルビなどを改変)
「遠州の数多の天狗の総帥」とみなされている秋葉山三尺坊は、しかし実は大昔に他の地域からやってきた人で、遠州以外にも「こここそが三尺坊の本場」と主張している場所がたくさんあります。江戸時代から「本家争い」が幾度も繰り返されてきたため、江戸時代の半ば(享保2年=1717年)遠州秋葉山の立場でつくられた秋葉山三尺坊の「公式設定」が『秋葉山略縁起』です。
「近年秋葉山の名をかり、所々に三尺坊権現勧請のいろいろあやしき事など申ふれ候者これあるよし、伝え聞く。一切遠州よりよるしおき候うことに、これ無くそうろう」

秋葉山三尺坊と関係の深い場所

・秋葉山本宮秋葉神社(静岡県浜松市春野町)
    三尺坊大権現天狗が棲まう山のその場所(山頂)にある神社。
    元は神仏混淆であったが、明治6年の神仏分離令によって祭神として「火之迦具土大神」を祀るようになった。
    『三代実録』の874年の記にある「従五位岐気保神」がここであるとして、主張する歴史(和銅2年=709年創建)は行基伝説と異なる。
    12月15日・16日の大祭では「火の舞」をおこなう。現在境内には天狗はいないことになっている。
・秋葉総本山秋葉(しゅうよう)(静岡県浜松市春野町)
    いったんは絶滅させられた秋葉山の天狗修験だが、明治13年に宮内省の後援により再興。
    かつて秋葉権現の社があった場所にはすでに神社が建ってしまっていたため、800mくだった所にあった空地に寺を建立。
    12月15日・16日の大祭では「火渡り」の儀式を行うが、山頂の神社とは時間をずらしているため両方見られてお得である。
    明治44年頃に裁判所に「現在の秋葉寺は江戸時代の秋葉寺とは連続性が無い」という判決を受けた。
秋葉總本殿 可睡斎(かすいさい)(静岡県袋井市久野)
    明治の廃仏毀釈の時、解散させられた秋葉山の宝物はすべて可睡斎が引き取った。
    これはすべて、徳川家康の時代に家康と秋葉山と可睡斎の間に交わされた約定に由来するものだという。
    その後秋葉寺が再興した時、可睡斎は本尊の聖観音は返したが、三尺坊大権現は返さなかったという。
    だから現在でも可睡斎が秋葉の總本殿。三尺坊はここにいる。12月15・16日に「火渡り」をおこなう。
・越後蔵王堂三尺坊(新潟県旧栃尾市楡原(にればら)
    元は人間だった三尺坊が激しい修行ののち天狗化した場所で、「三尺坊」とはここにあった十二坊のうちの筆頭の建物の名前である。
    天狗と成った三尺坊が降り立った「般若院叶坊」(蔵王堂十二坊の内のひとつ)を上杉謙信が「常安寺」とした。
    寛保3年(1743年)に江戸の寺社奉行に裁判を起こし、結果「遠州は三尺坊の根元、越後は根本」という裁決がくだった。
戸隠(とがくし)宝光院(長野県長野市戸隠)
    『信濃高僧伝』によると人間だった三尺坊が誕生したのは戸隠にあった「岸本家」。
    岸本家は宝光院の大鳥居の隣りにあり、やがて「教釈院」となったが、現在は「宿坊岸本」。
    ※三尺坊生誕地は「信州伊那郡松島村」説、穂高村和栗の説(『信濃宝鑑』)もある。
秋葉山本坊 峯本(みねもと)(静岡県旧清水市)
    鎌倉時代から犬居郷を支配していた天野氏はやがて徳川家康に背いて武田領に退去。
    信玄の庇護を得て江尻湊に真言宗醍醐派の秋葉寺を建てたのが「天野小四郎景直」。天野氏しか知らない何らかの秘儀を伝えていてもおかしくない。
    宝暦13年(1763年)に秋葉山から「秋葉」の字の使用禁止を求めて訴えられ、本末を巡って争った。
    (※裁判の判決(明和2年=1765年)の記録は失われているが、清水側が勝ったと思われる)
・秋葉山量覚院(神奈川県小田原市)
    天野氏退去後に徳川家康から北遠の支配を任されたのは大久保忠世。
    徳川氏の関東移封で大久保も小田原に移ったが、このとき一月坊竺禅という者が秋葉山の本尊三尺坊を小田原に持ち去ったという。
    12月6日に「火の舞」「火渡り」の組み合わさった独自の儀式を行うが、これが最も古来の「秋葉の火祭り」の姿を残しているとの評判。
・秋葉山圓通寺(愛知県名古屋市熱田区)
    日本最古の秋葉山三尺坊大権現出現霊場」を名乗っている。
    遠州秋葉山へ行く途中の三尺坊が一時飛行を休めた場所という意味で、羽休(うきゅう)三尺坊」ともいう。
    ただし、この寺の伝説ではここに三尺坊が羽を休めたのは戦国時代の永享年間(1430年頃)。
    それとは別個にこの寺には「日本武尊の妻・宮簀媛(みやずひめ)命が草薙の剣をもって火の力で夫の東国平定を助けた」という伝説も持つ。
    寺は徳川家康と関係の深い遠州浜松の普済寺の末寺。
    三尺坊と面識があったはずの開山の誓海義本と2世の明谷義光が彫った三尺坊の木像が残っている事が注目される。
    どちらも烏形ではなく、鼻高僧形の天狗像である。
    愛知県では他に、天白区の秋葉山慈眼寺が「大同年間に御所の火を消した三尺坊が帰り道に立ち寄った」という伝説を有している。

通説としての三尺坊の伝記として、享保の頃に御本山の付近で編集された『秋葉山略縁起』が最も典型的なものです。(それ以前にも縁起由来はたくさんあったのでしょうが、明治初頭の大破壊でほとんどが失われてしまいました)。この同時期の諸書に語られている三尺坊の物語はほぼ似通っています。
三尺坊様は信州の戸隠の里(木島平村、飯田市千代、穂高村という説もある)の生まれ。その生年を宝亀9年(779年)と断言しているのは現秋葉寺山主・大透賢龍(藍谷俊雄)師。また師は三尺坊の俗人時代の名を周国(かねくに)であったとも記しています。この記述は他書には無いもので、師も著書でその典拠を特に示していませんが、要は山主様の手元には破壊を逃れた、まだ人が知らぬ史料がたくさんあると思われます。
ただ、他書には三尺坊が鎌倉時代の人、もしくは戦国時代後期の人としているものもあり、どうやら古い時代の物ほど三尺坊の出生は新しいみたい。ともかく、母が観音菩薩に強く願い、夢の中に迦楼羅身で現れた観音の夢告によって生誕した、というエピソードは共通している。そして7歳で出家し、最初は戸隠山で修行をしましたが、やがて越後国栃尾の蔵王権現に入り、十二坊中第一の三尺坊で阿闍梨の位を得たことから、“三尺坊”と呼ばれるようになりました。(本当に身長が三尺(=90cm)ほどだったとする伝説もあります)。13ヶ条の誓願を立て1日に千座の護摩を焚き37日間それを続ける不動三昧の修行に入ってその満願の日、火焔の中で鳥のような翼を生やして、左右の手に剣と索を持つ姿となったのが延暦2年(783)10月24日。(←4歳です)。飛行自在となり白狐にまたがって飛ぶ秘術を得たといいます。そのまま彼は自分が降り立つ場所を求めて全国を飛び回ったのですが、とうとう遠江の秋葉山を見付けてそこに降り立ちました。寺伝によるとそれは大同4年(809年)です。この山での行法会得の行の最中、「我が名を呼ぶものあれば、願いを入れて火災盗難を防止する」と叫んだことから、周りの者どもは驚き恐れ、彼を「威徳大権現」と崇め奉り、迦楼羅天の威勢を感じたのだそうです。秋葉山に一祠を建てて祀り、般若院叶坊(かのうぼう)を別当としました。三尺坊が飛んできたとき、カエルの背に「秋葉」という文字が浮かんでいるのを見たので「秋葉山」という山名を付けました。(異説あり) 同じ大同4年、京都で大火事が起こったとき、三尺坊が飛んできて火を消し、都を救ったという伝説があります。「御所の上に天狗が現れ、大きな葉団扇をふるって火を消し、人々が名を聞くと「われは秋葉の三尺坊である!」と答えて姿を消した」とか「火事で大わらわになっている時に御所の前に白馬に乗った不思議な老人が現れ、火事の最中だけど人々が不思議に思って尋ねると、「我は秋葉の神で火を消しに来たが、位がないので中に入れない」と言うので、ちょうど居合わせた高貴な人が帝にかけあって位を与えることにすると、老人は燃え盛る火の中に白馬とともに駆け込んで、またたくまに火を消してしまった」とか、そういう逸話があります。(←これに関しては桃園帝の頃(江戸時代)もしくは中御門帝の頃(江戸時代中期)の逸話ともされます)。この途中に名古屋に寄り、筆で「鎮防火燭」と書いた真筆を寺宝として建てられたのが秋葉山慈眼寺ですが、同じ名古屋の別の場所には「日本最古の秋葉権現出現の霊地」を謳う秋葉山円通寺があります。(だとすると大同4年の飛来とする秋葉山の伝説とは時代が合いませんので、結局のところ詳細は不明です)
数多い伝説
秋葉山三尺坊はとりわけ伝説の多い天狗です。

・もともとは人間だった。
   「」
・越後の蔵王堂で激しいしゅぎょうをし
・御所で起こった大火災を白髭の老人が消した。名を聞くと「我は秋葉の三尺坊なり」と叫んで飛び去った。
・三尺坊大権現に神階正一位を贈ったのは中御門天皇(1711年)ですが、その少し前に頻発する災害や御所の火災に苦しんでいた後西天皇(17世紀半ば)も「正一位秋葉山三尺坊大権現」の宸筆の額を贈っているそうです。
・中世には「戦勝の効験」でも知られ、源頼義・為朝・足利尊氏・今川仲秋・武田信玄・山本勘助・長宗我部元親・豊臣秀吉・加藤清正・福島正則らが刀剣を奉納しています。

秋葉山三尺坊の前身
信州戸隠の里。
叶坊光播とは
上州出身。
貞享の秋葉祭
秋葉信仰が民衆に広まったきっかけ。
<明治の混乱>




日本八大天狗
愛宕山太郎坊比良山次郎坊/飯綱三郎/英彦山豊前坊/
大峰前鬼/白峯相模坊/大山伯耆坊/鞍馬僧正坊
日本四十八天狗
愛宕山太郎坊比良山次郎坊/鞍馬山僧正坊/比叡山法性坊/横川覚海坊/富士山陀羅尼坊
日光山東光坊/羽黒山金光坊/妙義山日光坊/常陸筑波法印/彦山豊前坊/大原住吉剣坊/
越中立山繩垂坊/天岩船檀特坊/奈良大久杉坂坊/熊野大峯菊丈坊/吉野皆杉小桜坊/那智滝本前鬼坊/
高野山高林坊/新田山佐徳坊/鬼界ヶ島伽藍坊/板遠山頓鈍坊/宰府高垣高林坊/長門普明鬼宿坊/
都度沖普賢坊/黒眷属金比羅坊/日向尾畑新蔵坊/醫王島光徳坊/紫黄山利久坊/伯耆大山清光坊/
石鎚山法起坊/如意ヶ嶽薬師坊/天満山三萬坊/厳島三鬼坊/白髪山高積坊/
秋葉山三尺坊
高雄内供奉/飯綱三郎/上野妙義坊/肥後阿闍梨/葛城高天坊/白峯相模坊/
高良山筑後坊/象頭山金剛坊/笠置山大僧正/妙高山足立坊/御嶽山六石坊/浅間ヶ嶽金平坊
遠州十二天狗
秋葉山三尺坊/光明山笠峰坊/春埜山大白坊/大日山繁昌坊/小笠山三廣坊/粟ヶ嶽一寸坊/
山住大権現/雲林寺思案坊/大頭龍権現/福天大権現/小笠山多聞天/油山寺軍善坊/
菊川火剣坊/初山龍門坊/岩水寺地安坊/磐田中泉三広坊/竜頭山八尺坊/山住常光坊/
名古屋琢道坊/智満寺阿修羅坊/奥山半僧坊