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愛宕山太郎坊(あたごさんたろうぼう)


月岡芳年『武勇雪月花-五條乃月』(部分)

◎日本八大天狗の筆頭。
◎天狗経にうたわれる日本48天狗の1番目。
◎異称=栄術太郎
(えいじゅつたろう)…「術をたくさん持っている太郎坊」の意
◎いる場所=山城国
(京都府)、平安京の北西に聳える愛宕山(924m)
◎効験=火坊・国家鎮護・尚武・盗難除け・彷霊鎮撫・雨乞い
◎前身=日羅?、真済?
◎愛宕八天狗=太郎坊・火乱坊・三密坊・光林坊・天南坊・普賢坊・歓喜坊・東金坊
◎愛宕権現
(勝軍地蔵)の真言=「オン・カーカー・カソダト・ソワカ」
        「オン・バザラ・ケイト・シタラ・ウン・ハッタ」
◎太郎坊天狗の真言=「オン・マカジヤ・ソワカ」
◎公式的なサイト;『総本宮 京都愛宕神社』
           『京都愛宕研究会』
◎「伊勢へ七度(ななたび)、熊野へ三度(みたび)、愛宕様へは月参り」

◎「火廼要慎」


時空を超越する大天狗
太郎坊は「日本の八百億の天狗の総帥」とみなされる人ですが、その正体は“柿本の()の僧正”真済(しんぜい)(=弘法大師の高弟で、高雄山神護寺に住し、『性霊集』を編纂した。平安時代前期(9世紀)の人)であるというのが最も有力な説です。でも、白鳳期(7世紀後半)に役の小角に会ったとき、太郎坊は唐土の善界・天竺の日良(にちら)横に控え「自分は仏にこの先2000年この山を守護しろと命ぜられた」と語ります。なのに『是害坊絵巻』『是害坊絵詞』では愛宕の天狗の惣領は「日羅坊(にちらぼう)」そのものだとされ、日羅が太郎坊の前身である事が示唆されています。(※歴史の中の「日羅」は父が九州人である異相の百済僧で、聖徳太子の師。6世紀後期の人。敏達天皇に招かれて日本に来るが、百済の人に暗殺された)。

白雲寺縁起
愛宕神社
「王城西ク二愛宕山ト一於嵯峨萬仞之上ニ一靈區ナリ也昔文武大寳中役小角欲スレント二此山ニ一雲遍上人ト云於嵯峨ニ一小角同ルニ淸瀧ニ一雲起山中雷鳴雨降シ二車軸ノ一也。二人秘呪密言チ以祈讓也日俄ニメ而天晴少焉(しばらくあって)地藏龍樹富樓那毘沙門放ツニニ一テ二愛染ヲ一五佛ト一大杉(はびこり)ルレ天竺大夫日良唐土大夫善界日本太郎坊太郎坊一名榮術太郎ヒテニ其眷屬ナ一ス二于大杉之上ニ一九億四萬餘天狗神頭鬼面被毛戴角告テ二二人ニ一曰、我等前二千年靈山會塲テ二付屬ヲ一テ二大魔王ト一以領シ二ヲ一益群生ヲ一見二人因メ二杉樹ヲ一淸瀧四所明神ト二而瀧ス二千手大士ヲ一テ二五岳ヲ一以鎭ス二ヲ一也曰朝日峯、曰大鷲峰曰高雄山曰龍上山曰賀魔藏山ナリ也小角具以聞朝廷(みかど)テレ旨、立ツ二神庿於朝日ニ一香燈不于今ニ一矣雲遍更ク二泰澄ト一開山第一祖ト一光仁帝卽テレヲ二慶俊僧都ニ一セシムヲ一和氣淸麿ナリレ也白雲寺朝日峯月輪寺大鷲峯神願寺高雄日輪寺龍上傳法寺賀魔藏五寺外營ス二五千坊テ二桓武ニ一テ二ヲ一ス二ト一ス二愛宕護山大權現ト一此山ヲ一鎭護國家道場ト一(『山城名勝志』)
「平安宮城の西の山を愛宕山というが、この山は嵯峨の里の上に遙か聳える霊験の場所である。
むかし文武の帝の大宝年中に、役ノ小角がこの山に登ろうと思い、そのころ嵯峨の奥に庵を結んでいた雲遍上人という者と連れだって出かけた。清滝まで来たとき、突如滝の上に暗雲が巻き起こって、雷鳴と共に車軸のように太い雨が降り始め、前に進むことができなくなった。二人は秘密の呪文をにゃむにゃむ唱えた。するとすぐに空は晴れ、地蔵菩薩・龍樹菩薩・富楼那弥多羅尼・毘沙門天と愛染明王の五仏が現れあたりを明るくした。そばに地に深く根を張り高さは天まで届くほどの大きな杉があり、その杉の上には天竺の日良、もろこしの善界、日本の太郎坊
(別名栄術太郎)らとそれぞれが率いる9億4千万もの天狗らがいた。彼らの頭は神の如く輝き、顔は鬼のようで、髪の上には角まであった。彼らは二人に語った。われらは2000年前に、この場所が霊山で神霊たちの集まる場所であるがゆえ護るようにとの仏の付託を受け、大魔王としてこの山を領し、群生に利益を成しているのだ。二人はこの杉の木を清滝四所明神と名付けた。滝の上に千手観音を安置して、朝日峯・大鷲峰・高雄山・龍上山・賀魔藏山の五岳の鎮護としたのである。小角は朝廷に奏上して宣旨を得て、朝日の峯に神廟を建て、香燈を絶えさせないようにした。泰澄と名を改めた雲遍上人がこの山開山の第一祖である。その後、光仁の帝が即位した時、慶俊僧都に勅を与えてこの寺を中興させた。白雲寺は和気清麻呂が建てたもので朝日の峯にある。その後、大鷲の峰に月輪寺、高雄山に神願寺、龍上山に日輪寺、賀魔藏山に伝法寺が建てられ、五千の僧坊がひしめくこととなった。
桓武帝の頃、愛宕の「宕」の字を改めて「護」とし、「愛宕護山大権現」と号してこの山を鎮護国家のための道場とすることにした」
愛宕山の地図
愛宕山は平安京の(いぬい)の方角にそびえ立つ山で、(うしとら)(鬼門)に対して「陽の極み」であり、神門であると考えられていた方角ですが、平安時代初期にはすでに、神がいると同時に妖しい存在もたくさんいる山とも見なされていたようです。
(※例…渡辺綱に腕を切られた鬼は愛宕の方へ逃げていった、今昔物語では怪しい僧は愛宕・葛木の方からやってくる、など)。

この山の信仰の起こりについては『白雲寺縁起』にもとづくものとして、役ノ行者&泰澄のスーパースター伝説が語られることが多いです。が、その『白雲寺縁起』は謎の書物で、知切光歳師も『白雲寺縁起』じゃなく『三国仏法伝通縁起』によるものとしておられる。
『白雲寺縁起』は詳細が不明な書物で、正徳の頃(6代将軍・家宣の頃)に大島武好が編纂した『山城名勝志』に集録したとされているものが知られているのですが、山城名勝志のはよく見ると「三國佛法傳通縁起ニ云ク」として慶俊僧都が真言宗をもって寺を起こした、と書いたあと、続けて「縁起ニ云ク」として件の役小角・泰澄伝説を引いてあって、『白雲寺縁起』という語句は一言も出てこない。(だから知切師は出典を『三国仏法伝通縁起』としたのである)。そもそも『山城名勝志』の引用書目の中には『白雲寺縁起』の名は無いです。(※『愛宕山縁起』という書名はある。)

『三国仏法伝通縁起』の方は知切師によると、後小松帝の頃の華厳僧・凝然が応永6年(1399)に記したものだそうです。
役小角(えんのおづぬ)…白鳳時代(7世紀)に活躍したとされる伝説的な人。『日本後紀』に名前が出てくるので実在したことは確かだが、その業績はその『日本後紀』の中で既に超人的(鬼人的)な描き方である。日本の修験道の祖とされる。大和の国出身。
泰澄
(たいちょう)…奈良時代(8世紀)に加賀国の霊山・白山を開いたとされる伝説的な名僧。越前国出身。14歳のとき出家して「法澄」と名乗り、役ノ行者と出会ったとされる大宝年中は18歳ぐらいで(※「雲遍」と名乗ったという記述は愛宕山の伝説にしかない)、その彼が白山を開山するのは36歳のとき、その後、称徳天皇から「泰澄」の名を賜るのは55歳ぐらいのときだそうです。
愛宕山の修験道が役ノ行者までさかのぼれるかどうかは不明なのだけど、「桓武帝の頃に鎮護国家の道場と定められた」というのは本当のことで、承和3年(836)3月に、「官符により、春と秋の二度、比叡・比良・伊吹・神峯・愛宕・金峯・葛木の七山に9日間の薬師悔過法をおこない、その費用として50石を給することを定めた」と源為憲の『口遊』に書かれています。(承和3年は桓武の孫の仁明天皇の時代ですが、桓武の頃にその行事は始まったと思われ、そのための費用が与えられたという記録です)。つまりこの頃には山中に寺があったという証拠になります。『源氏物語』や『本朝神仙伝』など、この山には昔から(ひじり)や仙人がいると有名だったというような記述があります。『今昔物語』には、この山の高験の僧を巨大な猪が化かしたという話まで載っています。

村山修一氏は『愛宕山と天狗』(『天狗と山姥』所収)の中で、「左京区に位置する愛宕(おたぎ)郡と、嵯峨にある愛宕念仏寺および化野念仏寺はともに葬送の土地であり、愛宕は現世と冥界の境と考えられていた地名である」と述べています。『縁起』において「慶俊僧都」(=奈良時代の僧、弘法大師の師)の名前が出てくるのは、六道の辻の「珍皇寺」(別名;愛宕寺)を開創して鳥辺野(愛宕)の彷徨える霊達を慰撫したという伝承が愛宕山の白雲寺のことと混同されてしまったとのことです。
慶俊(けいしゅん/きょうしゅん)…奈良時代の三論・法相・華厳の僧。河内国の藤井氏出身。高名な遣唐使僧である道慈(=日本に虚空蔵求聞持法を招来した僧)のいた大安寺に入り、律師となって聖武天皇・光明皇后・藤原仲麻呂らと密接な関係を持ち、道鏡とは対立した。一般に、大安寺にいた僧で空海の師的存在だったのは「勤操」という人だとされているが、空海の『御遺告』第4条の「珍皇寺を後の弟子門徒の間で修行によって清らかに保つべき縁起」の中で、慶俊を「わが祖師」と呼んでいる。(珍皇寺において幼少の空海が慶俊に近侍していたとする伝説もある)。六道珍皇寺の慶俊開創についても諸説がある。
『白雲寺縁起』には、「役ノ小角と泰澄は清瀧の付近で諸仏と9億4千万の天狗たちと出会った」と書いてありますが、この「清瀧」が、現在の愛宕山登山の登り口である「清滝の里」と同じ場所だとは思ってはいけません。
清滝口からの17丁目(まだ登山道を半分も登っていない場所)に「火燧権現跡」という場所があり、ここが役ノ小角と泰澄の「清滝四所権現」の跡だそうです。当然9億4千万の天狗が枝に鈴なりになった大杉もこの場所にあったと思われますが(※さらにここからしばらく登ると「大杉社」というまぎらわしい場所がありますが、ここは別の杉だそうなので注意)、付近をどう探しても瀧のありそうな場所はありません。(愛宕山の別の場所の大杉谷というところに「空也の滝」というのがありますが、ここも違うらしい)
「役ノ行者が朝廷に奏上して朝日の峯に建てた神廟」というのが現在の愛宕神社本殿のある場所であり、明治の廃仏毀釈まで愛宕山の山頂にあった「愛宕山白雲寺」のことです。(※白雲寺は“愛宕権現”の「別当寺」という扱いです)
明治以前の白雲寺の本尊は愛宕権現の本地仏としての勝軍地蔵。脇侍として泰澄大師・不動明王・毘沙門天・龍樹菩薩を祀っていました。
奥の宮には太郎坊栄術、役行者、宍戸司前の3人が祀られました。
現在の愛宕神社には、祭神として本宮に伊弉冉(いざなみ)尊・埴山姫(はにやまひめ)神・天熊人(あめのくまひと)命・稚産日(わくむすび)神・豊受姫(とようけひめ)命。
昔の奥の院にあたる現在の若宮に8人の雷神(大雷・火雷・黒雷・折雷・若雷・土雷・鳴雷・伏雷)迦遇槌命(かぐつちのみこと)破无神(はむしのかみ)
その奥に作られた奥宮に大黒主ならびに16神(厳島社三神・水分社一神・護王社一神・太郎子社一神・大国主社一神 司箭社三神・日吉社二神・春日社四神・蛭子社一神)が祭られているそうです。

かつての白雲寺の本尊の勝軍地蔵の像は、明治の混乱のすえ大原の金蔵寺に移されています。

太郎坊と並んで戦国時代初期の武将・剣豪・半仙人の「宍戸司箭(ししどしせん)」まで祭られているのは、「奥の宮の太郎坊の社を作ったのは彼」という伝説があるからです。
「太郎社」の「子」ってなんなんでしょうね。
「若宮」の「若」は通常「イザナミの子」である「カグツチ」(=愛宕大権現の正体)を指すのだと思いますが、かつての「太郎坊社」が現在「若宮」となっていることから見て、“火坊天狗”太郎坊も“火の神”迦具土の子であるという伝説があったのかもしれませんし、この「子」はただの方角(=北)なのかも知れません。
「破无神」(=虫除けの神)に至っては、なぜここに祀られているのかまったくの謎ですが。
太郎天狗の(すずり)
奥宮の向こうが愛宕山の山頂なのですが、現在は「神域」として立ち入り禁止になっております。
でも、そのどこかに「太郎坊の硯石」という不思議な形の石があると伝えられております。
かつて、旱魃の折には、登山道からわざとはずれて道なき道をよじ登り、この石に到って、その上に溜まった水を汚れたひしゃくで搔き荒らすと、天狗が怒り狂って必ず雨を降らせたと伝えられます。

天狗の集う杉

縁起的には、役ノ行者が太郎坊大天狗に出会ったという天狗が鈴鳴りになっている大杉は燧権現のところにあるはずなのですが、山頂付近にも、天狗が大量に巣くっていることで有名な杉があったそうです。現在はその杉は無く、その切り株が本殿の縁の下にあるそうなのですが、詳細はよく分かりません。
太郎坊変化石(神石)


愛宕八天狗
かつては本殿の裏(現在は立ち入り禁止の地域?)に「八天狗社」があったそうです。
「京の愛宕山に上りて見しかば、宮の後に八天狗社と云がありき」(平田篤胤『古今妖魅考』)

(→「愛宕山八天狗について」)


真済僧正が愛宕山太郎坊の正体だという説について

「天狗の頭領の名」といえば「太郎坊」。
しかし、愛宕山の大天狗の名が“太郎”だという記述が初めて現れたのは意外と新しく、鎌倉時代後期~南北朝時代の成立と思われる『源平盛衰記』がその初出だとされます。
同様に、「高僧はすべからく天狗となる」という定義を作ったのも源平盛衰記の功績で、裏返して「天狗とは、どこかの名僧が死んだ後に成った姿である」という天狗界の常識を作り出したのも源平盛衰記なのです。(※源平盛衰記は『平家物語』の異本のひとつなのですけど、他の平家物語にも天狗は頻繁に現れるのに、「太郎坊=真済」説は源平盛衰記のみのようです。ただ、盛衰記の編者は伝説の情報収集力に非常に長けた人物でありまして、この説も当時一般に膾炙していた話を物語中に取り入れたものであります。)
この説を創始した源平盛衰記としては、源平盛衰記の時点では未だ数少なかった「日本国有数の大天狗」の正体には頭をひねったのでしょうが、どうしてそこに「真済」が選ばれたのでしょうか? 実は、「太郎坊=勝軍地蔵の権化説」、「太郎坊=カグツチ神の化身説」、「太郎坊=日羅説」などよりも、「太郎坊=真済説」の方が遙かに歴史が古い。
『源平盛衰記』(巻八)~「法皇三井灌頂の事」


悪左府(あくさふ)・頼長と愛宕山の天狗

大河ドラマ(2012)の悪左府 1156年に起こった「保元の乱」は、その後40年のあとに決着することになる“源平の争乱”の幕開けとなった大事件です。
この戦争は、即位したばかりの後白河天皇に邪険にされた左大臣・藤原頼長(=先代・近衛天皇の頃に政権の中枢にあった人)が、帝と仲の悪い崇徳上皇と手を組み巻き返しを図ったことが起因です。でもそもそものそのきっかけには愛宕山の天狗が関わっていると言われます。

藤原頼長の日記『台記(たいき)(久寿2年(1055年)8月27日)より。
「壬寅、親隆朝臣来語曰、所以法皇悪禅閤及殿下余者、先帝崩御、人寄帝巫口、巫曰、先年人為詛朕、打釘於愛宕護山天公像目、故朕不明、遂以即世、法皇聞食其事、使人見件像。既有其釘。即召愛宕護山住僧問一レ之、 僧申云、五六年之前、有夜中□□□□□□□□、美福門院及関白、疑入道及 左大臣所為、法皇悪之、雖信取、如天下道俗。先日成隆朝臣、語略事。今聞両人説畏不少、但禅閤及余、唯知愛宕護山天公飛行、未知愛宕護山有天公像、何況祈請乎、蒼天在上、日照□□怖怖」
「…壬寅の日に、家司の藤原親隆が来て語った。(鳥羽)法皇は出家された太閤(=藤原忠実)と殿下(=頼長)をうとまれているという噂がありますが、その原因は、一月前に16歳で亡くなられた先帝(=近衛天皇)の霊を法皇が巫女に命じて寄せたところ、巫女が、何年か前に誰かが朕を呪い、愛宕護山にある天公の像の目に釘を打ったので、そのために朕は目を患い、ついに命まで失ったのだ、と言ったからだそうです。法皇が確認のため人を使わしたところ、確かにその像が山にあり、その目には釘が打ち付けてあったと。すぐに愛宕護山の住僧を呼んで問いただしたところ、そういえば5、6年前の真夜中に(※以下8文字不明)あって、法皇の后(=美福門院)や関白(=藤原忠通、頼長の兄)がそれを入道(=忠実)と左大臣(=頼長)のしわざではないかと疑ったという。それを聞いて法皇もおふたりを遠ざけるようになったのだというのです。余りに信じがたい話ですが、今では都の人々もこのウワサを信じてしまっているそうですよ。わたし(=頼長)は初めてこの話を聞いた。本当に世の中という物は怖いものだ。だがしかし、禅閤もわたしも、愛宕護山のあたりには天公が飛行することがあるということは聞いたことがあっても、その山に天公の像があるということなど知らなかった。だからそんな呪詛などかけられようはずもない。大丈夫、蒼天が天上にあるのだから、日の照る下で清廉にしておれば怖れるものなど(※以下2字不明)。」
知切光歳の『天狗考上巻』にはこの「天公(てんぐ)」に「てんぐ」とルビがふってあって、一般にはこれが源平時代に愛宕山を中心とした天狗呪術が盛んだったという証拠とされているのですけど、一方で、この「天公」は世に言う「天狗」と同一のものなのかという議論はあります。

   (※参考;『天狗説話の展開』(pdf)

用語例的にいえば、この時代に使われていた「天公」という語句は「天にいる神霊的なもの」で「地公」と対をなすものであり、多分に「妖怪みたいにただ空を飛ぶもの」という現代的な天狗とは決して解釈が異なっていた物と思われます。語的に「天神」とも近いと思いますが、この時代は“怨霊神霊”の菅原道真を「天神=雷神」とする庶民観念が高まっていた時期でもありまして、逆に摂関家に属する藤原頼長は非常な碩学だったので、あえて「菅公=天神」とする記述は絶対にしたがらなかっただろうな、という時期でもあります。
この日記で頼長にこんな事を語った家司の藤原親隆は、のちに(頼長の死後に)平清盛に接近して異例の大出世を果たした“四条の宰相”で、この陰にあるなんらかの陰謀も感ぜられます。
恣意的な解釈であるかもしれませんが、藤原頼長という人は日本の歴史の中において、自分の意を政治的に発現させようとする最大級の悪人でありました。でも、この人は頭が良く自分の才能だけを最大に過信していたので、呪詛とか祈祷とかは常識的なレベルでしかやっていなかったと思います。悪人でありながらも、天才的な自分が最大限にできることだけをやろうとする悪人で、人間的には真面目な人でしたから、この日記に書いた「愛宕山に天公の像があったことなぞ知らぬのだから、祈請なぞ出来ようはずも無い」「自分の無実は天が知っている」という文は真実だったと思います。

天狗学的に言えば、だから政治的に純真無垢な頼長は愛宕山の天狗に利用されたのです。
知切光歳の言う「天狗が面白きと思うことは、焼亡、辻風、小いさかい、論の相撲、白川鉾の空印地、山門南都の神輿振り、五山の僧の問答」で、頼長の時点ではそれをまだ見抜けなかったのです。天狗が日本の歴史の中で本格的に争乱に介入しようとしたのはこの「保元の乱」が初めてだったのですから。

藤原頼長が「天公」のことをどういう存在だと認識していたか。
それはこの日記からは分かりません。
おそらく「太郎坊」という天狗の総帥的なものの形はまだできあがっていませんでしたが、頼長もこの山が古くから修験者たちの巣窟であり、また京の怪異の大部分はこの山の方から来る、不思議のある山という事は知っていたでしょう。(←「天公が飛行すると聞いたことがある」)
頼長の記述の「天公」は単数だったのか複数だったのかは微妙なところです。「天狗」という文字は平安時代の中頃から盛んに使われた文字ですから頼長か知らないわけがなく、敢えて日記中に「天公」という文字で記したことも、何か意味がありそうです。
「天狗の像の目に釘を打って呪詛する」という風習は、ここ以外には出てこないということもポイントです。

保元の乱において藤原頼長のパートナーであった崇徳院は、のちに「大怨霊であり、大天狗でもある」という神霊界のスーパースターへと成りますが、悪左府頼長こそ大天狗のひとりとなってもおかしくない程の個性の人であったのに、そういう伝説はありません。(※頼長の死の安元3年8月に、朝廷は崇徳院・源為義と共に“都に祟る怨霊”として頼長の鎮魂を行い、正一位・太政大臣の位を贈りますが、粟田宮を建てられた崇徳院に対して、頼長は個別には祀られませんでした)


太郎焼亡(じょうもう)




一説に前世は飛鳥時代の渡来の高僧・日羅で、仏さまに命ぜられて、2000年以上も(3000年とも)付近を鎮護しているといいます。 源平盛衰記には弘法大師の知徳第一の弟子だった柿本紀僧正(=真済。弘法大師の高弟)が慢心し愛宕太郎坊になった、と書いてあります(年代が合わない)。 ともあれ愛宕山には強大な霊気が満ち、由緒ある天狗たちがたくさんいると考えられていたということで、それは王都を取り囲む山々の中で最も高いのがこの愛宕山(924m)で、だからこういう位置づけができたのだと思われます。この山固有の修験の法として「愛宕の法」というのがあります。愛宕山には役行者(と泰澄)によって愛宕神社が作られ、京都の修験道の聖地にもなりました。火伏せの神様でもあります。 名高い天狗であるからかいくつかのエピソードに登場しますが、力が強いというわりにはちょっと… という感じに描かれることがままあります。代表的なのは、能の「車僧」(=傲慢な人間を諫めようと出てきたのに、逆にやりこめられる)。 歴史的には、平安時代の末期、”悪左府”と呼ばれた藤原頼長が父と共に愛宕山に登り、山頂の天狗像の目に釘を打ち込んで近衛天皇を呪殺したという噂が流れたことが原因のひとつとなって保元の乱が起こっており、見事に世に騒擾を起こしております。
武将と太郎坊
太郎坊兼光
南北朝時代に足利将軍家のお抱えとして活躍した備前長船の刀工・2代目兼光の手になる刀。
2尺3寸(70cmほど)だったといいます。

織田信長が所持し、明智光秀に下賜。それを光秀が愛宕山に奉納したので、「太郎坊」の名が付いたといわれます。
のちに豊臣秀吉が別の刀を奉納して、かわりにこの刀を手に入れる。秀吉が死んだ時に遺産として青木一矩(越前北ノ庄20万石)に分けられましたが、一矩は関ヶ原の戦いで西軍に属したので、敗戦後徳川家康にこの刀は召し上げられ、家康はこれを関ヶ原の賞として加藤嘉明(伊予松山20万石→会津若松43万石)に与えました。しかし嘉明はある日酔っ払ったはずみで太郎坊を丹羽長重(会津白河10万石)に譲ってしまい(嘉明は酔いが覚めたあとこれを猛烈に悔やみ、長重に返却を請うたが長重は拒否したという)、昭和まで丹羽家の家宝でした。昭和5年に競売に掛けられ、以後の消息は不明です。どこぞの金持ちの愛蔵になっていると思われます。
もう一点、同名で川越松平家に伝来している「太郎坊兼光」もあるそうですが、こちらの刀の由来は不明だそうです。


長治郎作 赤楽「太郎坊」



日本八代天狗
愛宕山太郎坊比良山次郎坊/飯綱三郎/英彦山豊前坊/
大峰前鬼/白峯相模坊/大山伯耆坊/鞍馬僧正坊
日本四十八天狗
愛宕山太郎坊比良山次郎坊/鞍馬山僧正坊/比叡山法性坊/横川覚海坊/富士山陀羅尼坊
日光山東光坊/羽黒山金光坊/妙義山日光坊/常陸筑波法印/彦山豊前坊/大原住吉剣坊/
越中立山繩垂坊/天岩船檀特坊/奈良大久杉坂坊/熊野大峯菊丈坊/吉野皆杉小桜坊/那智滝本前鬼坊/
高野山高林坊/新田山佐徳坊/鬼界ヶ島伽藍坊/板遠山頓鈍坊/宰府高垣高林坊/長門普明鬼宿坊/
都度沖普賢坊/黒眷属金比羅坊/日向尾畑新蔵坊/醫王島光徳坊/紫黄山利久坊/伯耆大山清光坊/
石鎚山法起坊/如意ヶ嶽薬師坊/天満山三萬坊/厳島三鬼坊/白髪山高積坊/秋葉山三尺坊
高雄内供奉/飯綱三郎/上野妙義坊/肥後阿闍梨/葛城高天坊/白峯相模坊/
高良山筑後坊/象頭山金剛坊/笠置山大僧正/妙高山足立坊/御嶽山六石坊/浅間ヶ嶽金平坊