表紙徳川家康の年表浜松城前史
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南北朝人名録アッシリア王名表

征夷大将軍宮 宗良親王の詳細な年表

(※註)この年表での年齢は、すべて「満年齢」(=1年後に誕生日を迎えると1歳年をとる)で表記しています。


生誕から青年期(1310~1332)鎌倉幕府の滅亡から建武の新政の崩壊、後醍醐の死(1333~1339)
苦難の戦乱と流浪の時代(1340~1355)詳細不明の晩年(1356~)

<生誕から討幕運動の始まりまで>


(1311年、延慶(えんきょう)4年→応長(おうちょう)元年 

   この年、宗良親王生誕?(『皇子たちの南北朝』)
1月3日、花園天皇(14歳)の御(かうぶり)の儀(=元服)。花園天皇は3年前に即位していた。
1月16日、延慶4年の内裏の事件。踏歌(とうか)節会の最中に女性問題がきっかけで六波羅探題の武士が滝口の武士を殺害。
    内裏の内外で計5名が死亡し、しかし工作により「内裏で死穢(しえ)はなかった」とされた。
    「前代未聞之珍事」
(『花園天皇宸記(しんき)  

1月17日、北条貞時の3男・高時
(9歳)小侍所(こさむらいどころ)別当に任ぜられる。
4月28日、改元。
(疾病流行が理由)
5月3日、論議
(「延慶両卿訴陳状」をめぐる)の末、伏見上皇は京極為兼ひとりだけに勅撰和歌集編纂の院宣を下す。
9月22日、鎌倉で執権・北条師時(もろとき)
(第10代)が評定中に死去。36歳。
10月3日、北条
大仏(おさらぎ)宗宣が第11代執権に就任。宗宣は嘉元の乱で北条貞時と対立していたとされる。
10月26日、鎌倉で幕政を牛耳る北条貞時
(鎌倉幕府第9代執権)が死去。39歳。死因は不明だがおそらく政治挫折による失意に対する過度の酒。



(1312年、応長2年→正和(しょうわ)元年) 宗良親王0歳

宗良親王誕生。父は尊治(たかはる)親王(のちの後醍醐天皇)、母は大納言藤原(二条)為世(ためよ)の娘・為子(いし)
  同母兄は5歳ぐらい年長の尊良親王。異母兄の護良親王は1308年生の3歳違い。
    
為子は『増鏡』に「やさしい歌数多く作るべし」と書かれた女流歌人で、歌を通じて尊治親王に見初められたらしい。約70首の歌がのこる。
(のちに宗良親王が母について述べた歌)
前大納言為定もとへ、千首哥(よみ)てつかはし(はべり)し時、贈従三位為子事などおもひ出て、(まうし)つかはし(はべり)
(ちり)はてし (ははそ)の社の 名残とも しらるばかりの ことの葉もがな (『新葉和歌集』・雜中哥 
宗良親王は二条為世の邸で養育された。同母兄である尊良親王は吉田定房に養育されていた。

3月20日、改元。
(天変地異が理由)
3月28日、京極為兼が伏見上皇に『玉葉和歌集』を奏覧。
5月29日、北条宗宣が病気を理由に執権を辞して出家。
6月2日、北条煕時が第12代執権に就任。33歳。北条高時の成人までのつなぎ。
6月12日、前執権・北条宗宣死去
(53歳)




(1313年、正和2年) 宗良親王1歳

秋、尊治親王
(=後醍醐天皇)が西園寺禧子(きし)を密かに連れ出す。(「東宮、密かに盗み取る所なり」(『花園天皇宸記』)
(後醍醐院御製)
四月一日、郭公の鳴けるをよませ給ふける
忍び音も けふよりとこそ 待べきに 思ひもあへぬ 郭公(ほととぎす)かな (『新千載和歌集』)

(新京極院
(=禧子)
おなじくよませ給ふける
なきぬなり 卯月のけふの 時鳥(ほととぎす) これやまことの 初音なるらむ (『新千載和歌集』)

・・・この事件のことをのちに2人で詠み合ったものとされる。
7月9日、後伏見上皇の皇子・量仁(かずひと)親王(=のちの光厳天皇)生誕。



(1314年、
正和3年) 宗良親王2歳

1月初、西園寺禧子の失踪が明らかになり、禧子は見つけ出されるが、既に妊娠5ヵ月だったため、輿入れの儀式を省略して着帯祝いがおこなわれた。
8月12日、
尊良親王と宗良親王の生母・為子没する。(『為理(ためただ)集』中の和歌より)


(1315年、正和4年) 宗良親王3歳

10月14日、懽子(かんし)内親王、生誕
。(父=尊治親王、母=西園寺禧子)。禧子にはこれ以前に早世した子があったと思われる。


(1316年、正和5年) 宗良親王4歳

7月10日、北条高時が第14代執権に就任。(満12歳)


(1317年、正和6年→文保(ぶんぽう)元年) 宗良親王5歳


(1318年、文保2年) 宗良親王6歳

2月26日、
後醍醐天皇即位。(30歳)。
2月26日、護良親王
(10歳)、出家して梶井門跡に入る。
(『続史愚抄』)
このころ、4年前に亡くなった
尊良・宗良親王の母・為子に「従三位」が贈られる。
    (後醍醐の即位に応じた贈位か、父・為世に勅撰和歌集
(『続千載和歌集』)の編纂を命ぜられたことによるものか)


(1319年、文保3年→元応(げんおう)元年) 宗良親王7歳

4月、山門僧徒、園城寺を焼く。
6月26日、懽子(よしこ)
(=後醍醐天皇と西園寺禧子の娘)に内親王宣下。4歳。
10月28日、懽子(かんし)内親王、一品(いっぽん)に叙される。



(1320年、元応2年) 宗良親王8歳



(1321年、
元応3年→元享(げんこう)元年) 宗良親王9歳

2月23日、改元。
(この年が「辛酉」に当たるため ←「辛酉」は天命が改まる年)
12月9日、後宇多上皇が院政を停止し、後醍醐天皇の親政開始。
12月23日、後伏見上皇(34歳)の第2皇子・豊仁(ゆたひと)親王(=のちの光明天皇)生誕。



(1322年、元亨2年) 宗良親王10歳

8月、東福寺の虎関師錬(こかんしれん)が後醍醐天皇に『元亨釈書(げんこうしゃくしょ)』を上表する。



(1323年、元亨3年) 宗良親王11歳

(-)護良親王(15歳)、出家して梶井門跡(梨本)に入る。
(『皇子たちの南北朝』) 


(1324年、元亨4年→正中(しょうちゅう)元年) 宗良親王12歳
正中の変勃発!
3月12日、世良親王(=宗良親王の異母兄)が尊良親王より2年先だって元服。親王の後見者の昭慶門院・憙子(きし)、同日逝去。54歳。
6月25日、後宇多上皇
(=宗良親王の祖父)、大覚寺御所にて病没。57歳。
8月22日、亀山院宮
尊珍(そんちん)が聖護院の二品覚助法親王(=後嵯峨院の子)の坊に入室する。19歳(『道平公記』)
9月19日、「正中の変」おこる。
   9月23日に倒幕活動が計画されているとの密告を受けた六波羅探題が、土岐頼有・多治見国長らを討伐。死傷者273人。
(『太平記』)
   六波羅探題は関東申次(かんとうもうしつぎ)・西園寺実衡に命じて、権中納言・日野資朝と蔵人頭(くろうどのとう)・日野俊基を出頭させる。
9月23日、後醍醐天皇は釈明のために権大納言・万里小路(までのこうじ)宣房を鎌倉へ向かわせる。

10月5日、万里小路宣房、鎌倉に到着し長崎円喜らの厳しい詮議を受ける。
   後醍醐天皇が宣房に持たせた綸旨は「逆鱗以て甚だし」で始まる高雅な文で、帝は讒告された側で、真犯人を突き止めるよう強く求めたものだったという。
(『花園天皇宸記』)
12月9日、改元。
(この年が「甲子」に当たるため ←「甲子」は4年前の「辛酉」を受けて、新しい天命による変革が起こりやすい年とされる)


(1325年、正中2年) 宗良親王13歳

2月10日、宗良親王、妙法院門跡を継承し、三品に叙されて尊澄(そんちょう)と名を改める。(『妙法院文書』)
11月22日、鎌倉で北条高時の長男
(万寿丸、のちの邦時)が生誕。母は高時の側室・常葉前(ときわのまえ)(御内人の五大院宗繁の妹)
11月25日、尊雲法親王(護良親王)が梶井門跡(かじいもんせき)を継ぐ。  


(1326年、正中3年→嘉暦(かりゃく)元年) 宗良親王14歳

  嘉暦の政変!

2月8日、
尊良親王元服。(※元服と立親王は違うらしい。尊良・護良・宗良らの親王宣下の時期は不明)
3月13日、14代執権・北条高時が病を理由に出家
(24歳)
    「得宗」は高時の長子・邦時
(生後4ヵ月)に。「執権職」は内管領・長崎高資父子の策謀で金沢貞顕に継がれることが決まる。
3月16日、北条貞顕が第15代執権に就任。
    同日、これに不満を持つ
北条泰家(=高時の異母弟)が出家。安達氏と共謀して貞顕を暗殺するという噂が流れる。
3月20日、後醍醐天皇の皇太子・邦良親王(=後二条天皇の皇子)が病死。27歳。
    これを機に後醍醐天皇が自分の息子の尊良親王
(20歳ぐらい)を次の皇太子としようと画策する。
    
常磐井宮(ときわいのみや)恒明(つねあきら)親王(=亀山法皇末子・大覚寺統、23歳)、花町宮(はなまちのみや)邦省(くにみ)親王(=後二条天皇次子・大覚寺統、24歳)も有力候補に。
3月26日、北条貞顕が執権を辞職して出家。(十日執権)
3月、護良親王は出家して梨本の寺に入り、
尊雲(そんうん)法親王と名を改めた。
4月、宗良親王、妙法院三十三間堂に入り、尊澄法親王(そんちょうほっしんのう)と名を改める。
4月21日、鎌倉で北条高時の長女
(満2歳、名前は不明)が死去。
4月24日、赤橋守時が第16代執権となる。
31歳。
4月26日、疾病流行と地震を理由に「嘉暦」に改元。

5月28日、尊珍(そんちん)(20歳,『寺門伝記補録』)が一身阿闍梨の宣を受け、園城寺長吏(おんじょうじちょうり)に補される。
7月24日、鎌倉の北条高時からの指示により、文保の和談の決まりに基づいて、量仁(かずひと)親王
(=後伏見上皇の長子。持明院統)が皇太子となる。
7月24日、後醍醐天皇が北条高時追討令を出そうとしたが、北畠親房に諫止される。



(1327年、嘉暦2年) 宗良親王15歳

2月6日、尊雲法親王
(護良)、三品に叙される。
12月6日、尊雲法親王
(護良)、天台座主に補任される(第116世)


(1328年、嘉暦3年) 宗良親王16歳

1月、尊珍准三宮(じゅさんぐう)の宣下。
10月4日
(10月11日?)、後醍醐天皇の皇子・義良親王(=のちの後村上天皇)生誕。母は阿野廉子(あののれんし)


(1329年、嘉暦4年→元徳(げんとく)元年) 宗良親王17歳

この年、
懐良親王生誕?(母は二条藤子(=二条為道の娘)。同母兄に躬良親王(=のちの二品入道親王・法仁(ほうにん)
春、宋から来た明極楚俊(みんきそしゅん)が鎌倉へ行く途中に京で後醍醐天皇に拝謁し、天皇が二度帝位に立つことを予言する。
(『太平記』巻5)
2月12日、尊雲法親王
(護良親王)、天台座主を辞す。後任(第117世)桓守(かんしゅ)(=太政大臣洞院公守(とういうきんもり)の息子)。
8月29日、疾病により「元徳」に改元。
12月、尊雲法親王
(護良親王)、天台座主に還任(第118世)


(1330年、
元徳2年) 宗良親王18歳

3月8日、後醍醐天皇南都へ行幸。倒幕へ向けて寺社勢力を掌握するため。(『太平記』巻2)
3月27日・28日、後醍醐天皇が比叡山に行幸。
  27日、大講堂供養。導師を
尊澄法親王、呪願を尊雲法親王がおこなう。尊雲法親王、二品に叙される。
9月13日、流行り病に倒れた世良親王が北畠親房に遺言を託す。
(『太宰帥世良親王遺命紀案』)
9月17日、世良親王死去
。(満18歳) 同日、乳父・北畠親房出家。
12月、尊珍が捕らえられて越前に配流される。

12月14日、尊澄法親王
(宗良親王)天台座主に補任される(第120世)『天台座主記』。(※『僧官補任』では12月24日)
(-)新田義貞が反町城を築き、由良館に移る。



(1331年、
元徳3年→元弘(げんこう)元年<大覚寺統>元徳3年<持明院統>) 宗良親王19歳

   
元弘の変!

2月25日、楠木正成が和泉国で乱暴。

3月27日、後醍醐帝、比叡山延暦寺へ行幸。
4月29日、後醍醐天皇の側近吉田定房が、後醍醐の倒幕計画を密告する使者を鎌倉に送る。
5月5日、幕府から長崎高貞が京へ遣わされ、日野俊基・
文観(もんかん)・円観らが捕縛される。
7月14日、鎌倉で北条高時の次女
(名は不明)が生誕。
8月6日、北条高時が長崎高資の専横を憎み、誅伐を図ったが果たせなかった。
8月9日、疾病を理由に「元弘」と改元するが、鎌倉幕府は書類不備だとして「元徳」年号を使い続けた。
(『元弘日記裏書』)
8月15日、尊澄法親王
(宗良親王)、『古今和歌集』を書写。
8月24日、鎌倉から軍が入洛するという情報を察知した護良親王が内裏の後醍醐を訪れ、進言を容れて天皇は夜半に神器を奉じて京を脱出。
   
天皇が比叡山に籠ったと見せかけるため大納言花山院師賢(もろかた)が比叡山に入り、尊雲・尊澄両法親王がこれを護る。(『増鏡』)
8月24日、六波羅軍が坂本口から延暦寺を攻める。尊雲法親王(護良親王)と尊澄法親王(宗良親王)が共同でこれを防ぐ。(『元弘日記裏書』)
   天皇がすでにここにいないと知った僧兵らが次々と離反し劣勢になったので、両法親王も離脱して笠置山へ向かう。

8月25日、後醍醐天皇、比叡山を逃れて奈良の北山松嶺寺
(東大寺の近くだが現存しない)に入る。
8月26日早朝、後醍醐帝、和束の鷲峰山金胎寺に行幸。
8月27日、後醍醐帝、笠置山に移る。
8月28日、帝を支持する兵が伊賀・伊勢・大和・河内から笠置山に集まる。
9月1日、六波羅軍、笠置山を攻めるため宇治に7万5千の兵を集結。高橋又四郎が抜け駆けしようとし、木津河原で大打撃を受ける。
9月2日、北条高時、諸将に上洛を命じる。
9月2日、六波羅軍の笠置山攻め開始
。(『太平記』)。(『笠置寺縁起』では開戦日は9月6日)
9月3日、楠木正成が笠置に参ずる。
9月11日、楠木正成が河内国で挙兵。
9月13日、備後国・吉備津神社で桜山四郎入道慈俊が蜂起。
9月14日、楠木正成が河内の赤坂城で挙兵。
9月20日、三種の神器が無いままに量仁(かずひと)親王が即位。(光厳天皇)
9月28日、夜の風雨の中で幕府軍が火を放ったことにより笠置山陥落。
後醍醐天皇、笠置山を脱出。
10月12日、無品親王・尊円(=伏見院皇子)が天台座主(第121世)に就任。(『天台座主記』)。
10月21日、木寺宮(きでらのみや)康仁親王
(=邦良親王皇子、11歳)に親王宣下。
11月8日、木寺宮康仁(やすひと)親王が光厳天皇の皇太子となる。



(1332年、
元弘2年<大覚寺統>元徳4年→正慶(しょうけい)元年<持明院統>) 宗良親王20歳

1月14日、
梶井二品法親王尊胤(後伏見院第4皇子)が天台座主に就任(第122世)し、大塔・梨本の両門跡を支配した。
3月7日、幕府は後醍醐天皇を隠岐島へ遷す。
3月8日、佐々木
大夫判官時信の警護で尊良親王が土佐の(はた)(幡多)に流される。二条為明が供奉。
3月8日、長井左近大夫将監高広の警護で、尊澄法親王(宗良親王)が讃岐の詫間(たくま)に流される。
3月、静尊(じょうそん)法親王を但馬に遷す。恒良親王
九宮=8歳)を中御門中納言宣明に預ける。
3月11日、尊良親王と尊澄法親王(宗良親王)が護送中にたまたま兵庫で行き会い、歌を送り合う
「今までは 同じ宿りを (たづね)来て 跡なき波と (きく)(かなし)き」(宗良親王)
「明日よりは 跡なき波に (まよふ)共 通ふ心よ しるべ共なれ」
(尊良親王)
3月22日、後伏見院の第一皇子量仁(かずひと)親王(19歳)が即位(光厳天皇)
   関白に鷹司左大臣冬教、別当に日野中納言資名が就任。

4月2日、後醍醐天皇は隠岐に着き、国分寺を行宮とした。
「我こそは新島守(にひじまもり)よ 隠岐の島の 荒き浪風 心して吹け」(後醍醐天皇)
4月3日、楠木正成が赤坂城を襲撃して奪回する。
4月10日、後醍醐天皇の皇子のうち10歳以上は城外へ移し、10歳以下は然るべき人へ預ける。
(『光厳院宸記』)
5月21日、楠木正成は四天王寺で六波羅軍を破る。
7月、赤松円心が播州で挙兵。
10月、小笠原長生が甲信の源氏7千余騎を率いて上洛。
10月29日、後醍醐天皇の寵臣・花山院師賢が配流先の下総国で病没。31歳。
(『南方紀伝』)。翌6月に文貞公(ぶんていこう)(おくりな)される。
11月、尊雲法親王が還俗して元の
護良(もりよし)と改め、吉野で挙兵。


<鎌倉幕府の滅亡から建武の新政の崩壊、後醍醐の死>

(1333年、元弘3年) 宗良親王21歳
鎌倉幕府滅亡!
2月12日、伊予の河野一族が、長門探題の兵船300艘を撃破。
閏2月11日、赤松則村が六波羅勢を撃破。

閏2月24日、後醍醐天皇が秘かに隠岐の島を脱出、出雲に着く。
閏2月28日、名和長年は船上(せんじょう)山で天皇を奉ず。
3月、一宮
尊良親王が肥前国彼杵郡に突如出現する。
3月8日、信州北部の豪族・市河助房が信濃の常岩・北条で兇徒と戦って撃破し、府中へ到る。
3月11日、赤松則村が入京。
   新田義貞は天皇の綸旨を賜り、病と称して千早城攻囲軍から去り、本国へ帰る。
3月12日~13日、肥後の菊池武時が博多の町を襲撃して少弐・大友らに挙兵を呼びかけるが、黙殺されて戦死。
3月14日、九州で江串三郎入道一味が尊良親王を奉じて倒幕の軍を挙げる。(『博多日記』)
3月17日、鎮西探題・赤橋英時が肥前国串島城
(江串氏の本拠)に尊良親王鎮圧の軍を使わす。
3月22日、江串一族、あえなく全滅。尊良親王と江串三郎入道は姿をくらます。
(多良山修験にかくまわれたとされる)
3月27日、北条高時は名越高家と越利高氏に上洛を命じ、両名鎌倉を出立。
3月、幕府軍吉野を攻撃。大仏陸奥守は24万騎を率いて千早城攻略に向かう。
   楠木正成と護良親王の機略により、千早城はよく防いで幕府軍は壊走。
   新田義貞、上州で挙兵。
4月10日、天皇は綸旨を下野の諸地頭に下し、北条高時追討の兵を挙げさせる。
4月17日、天皇、結城宗広に出羽・陸奥の兵を挙げ北条高時を討たしめる綸旨を下す。

   
足利高氏に高時追討の綸旨を下す。
4月27日、高氏、後醍醐天皇の勅を奉じて小笠原宗長に合力を請う。
4月29日、高氏は丹波国篠村八幡社前で京方への帰順を誓い、挙兵の式をする。
5月7日、足利高氏、六波羅を攻略する。北条仲時以下422人自決。
5月8日、新田義貞、上野国新田庄生品社前で義旗を挙げ鎌倉へ進発。その際足利庄にいた千寿丸
(4歳)を軍中に迎え入れる。
5月15日、新田軍は武蔵国分倍河原(ぶばいがわら)で鎌倉軍を破る。
5月18日、遠州の豪族、天野経顕・経政が新田軍に加わる。
5月22日、新田義貞が鎌倉を攻撃。北条高時以下807人自決し、鎌倉幕府滅亡。
   諏訪盛高は高時の遺児・亀寿を背負って信濃の諏訪へ逃れる。
5月25日、少弐・大友・島津らに攻められ博多の探題・赤橋英時ら北条一族240名自害。鎮西探題滅亡。

5月26日、尊良親王が太宰府に到着。8月までここにとどまる。
6月2日、後醍醐天皇は兵庫を発し西宮へ至ったところで新田義貞の戦捷を聞く。
6月5日、後醍醐天皇、京都還御。光厳天皇は廃帝。康仁親王は廃太子。
6月13日、志貴山にいた護良親王は足利高氏を除く事を企てるが、後醍醐天皇に止められる。
   護良親王が天皇から
征夷大将軍の地位を承認され、武装して京に入る。
   
尊澄法親王(宗良親王)が軍を伴い讃岐国より還御。(『大乗院日記目録』)
6月22日、
尊澄法親王(宗良親王)が天台座主に還任(第123世)『僧官補任』。(※建武2年3月16日という説もある。『天台座主記』では建武元年7月)。
8月5日、足利高氏が後醍醐天皇から一字を賜って「尊氏」と名を改め、従三位に昇進、鎮守府将軍となる。
   新田義貞は越後守となり、上野・播磨両国の介を兼ねる。脇屋義助は駿河守護に。
   楠木正成は摂津・河内両国の守、足利尊氏は武蔵守、直義は遠江守、名和長年は因幡・伯耆の守、赤松則村は播磨守護となる。

8月、護良親王、征夷大将軍の職を剥奪される。
8月14日、葉室光顕(はむろはるあき)が出羽守・秋田城介に任命される。
9月、雑訴決断所開設。

10月12日、後醍醐天皇の正妃(中宮)の西園寺禧子(きし)(=後京極院)、死去。男子はなし。
10月20日、北畠顕家、護良親王と図り足利尊氏に対抗するため、義良(のりよし)親王を奉じて奥州へ下る。(陸奥将軍府)
12月7日、珣子内親王(しゅんしないしんのう)
(=後伏見上皇の第一皇女)が後醍醐天皇の中宮に立后。23歳。新室町院。
12月、懽子(かんし)内親王が光厳上皇の後宮に入る
。18歳。この結婚が後醍醐天皇の指図によるものかどうかは議論がある。(『女院小伝』では「密入」という記述)




 (1334年、元弘4年→建武(けんむ)元年) 宗良親王22歳
建武の新政!
正月、恒良親王の立太子の儀。(恒良親王の母は阿野廉子)
1月5日、足利尊氏、正三位に昇進する。
1月、九州北部で北条一門の規矩(きく)高政・糸田貞義が反乱。約1年続く。

1月29日、「建武」に改元。大内裏の造営と紙幣の発行を計画。
3月、乾坤通宝(けんこんつうほう)発行の詔(幻の貨幣)。
3月、護良親王・新田義貞・名和長年らが足利尊氏を除く計画を立てようとしたが、実現せず。
6月7日、護良親王が尊氏の邸を襲おうとしているという風説が高まる
10月22日、護良親王、宮中で捕縛され武者所に拘禁
11月、護良親王が鎌倉へ送られる。二階堂東光寺に幽閉


 (1335年、
建武2年) 宗良親王23歳

中先代の乱!
3月16日、尊澄法親王、二品に叙される。(『続史愚抄』)
3月半ば、後醍醐天皇と珣子(しゅんし)内親王の間に皇女誕生。(幸子内親王か?)
6月22日、西園寺公宗(きんむね)・日野資名父子ら、「陰謀の輩」として捕らえられる。
7月14日、諏訪の祝部(ほおりべ)・諏訪頼重と子の時継、滋野一族等が北条時行
(8歳)を奉じて信濃で挙兵。
   青沼合戦…信濃の豪族衆が
信濃守護小笠原貞宗と戦っている隙を突いて北条時行が信濃国司を襲撃し、自害させる。
7月18日、北条時行が上野(こうづけ)国へ攻め入る。
7月22日、北条時行が
武蔵国女影ヶ原(おなかげがはら)で渋川義季と岩松経家を破る。渋川義季自害。
7月22日、小手指河原(こてさしがわら)の戦い。北条時行が今川範国を破る。
7月22日、府中の戦い。北条時行が
下野守護小山秀朝を破る。小山秀朝自害。
7月22日、井出の沢の戦い。北条時行が足利直義を破る。

7月23日、足利直義の命を受けた淵辺義博が拘禁中の
護良(もりよし)親王を殺害し、成良親王を奉じて西走する
8月頃?、建武二年内裏千首(だいりせんしゅ)
   後醍醐天皇が建武中興を祝ぐ歌会の開催を二条為定に命ず。
   詳細が定かではないが、日を置かずに二度開催された可能性が高い
。(1度目は内裏に著名な歌人を招いて探題方式で。2度目は広く一般の歌人に題を与えて)
   現存するのは70首ほど。うち後醍醐天皇5首、尊良親王11首、二条為世3首、二条為定2首、二条為明1首、足利尊氏1首だが、宗良親王作は無い。
8月1日
から、尊澄法親王、天台座主として比叡山で五壇修法の不動法(ふどうほう)を修する。
8月2日、西園寺公宗誅殺される。
   足利尊氏、中先代の乱鎮圧のために京を出発する。
8月19日、足利尊氏、鎌倉を奪回。
9月27日、足利尊氏が小笠原貞宗に信濃国筑摩(つかま)郡住吉荘を宛がう書状
。(小笠原氏に建武の新政からの離反をうながしたもの)
11月22日
から、尊澄法親王、比叡山で五壇修法(ごだんしゅほう)の中壇(不動法)を修する。
11月26日、京官除目で足利尊氏と直義の官爵を削る。
11月、清定、中山道大将として東国発向の時、たま満祐の住宅を焼き払い、資材等を奪い取る。
12月22日、北畠顕家、尊氏征討のために京を目指して陸奥国を出発する。



(1336年、建武3年→延元(えんげん)元年
<南朝>建武3年<北朝>) 宗良親王24歳

建武の新政の崩壊! 
1月1日、内裏では朝拝も節会も無かった。
1月1日、足利尊氏が鎌倉より入洛を目指す。近江の勢多を千種忠顕・名和長年・結城親光らが守り、連日合戦。
   勢多からは足利尊氏・高師泰、淀から畠山高国、芋洗
一口(いもあらい)から吉見頼隆、宇治から足利尊氏が攻める計画。(『梅松論』)
   遠江の天野経顕・景光父子は今川範国に従って勢多等で戦う。
(『足利直義軍忠状』)
1月1日、
信濃守護小笠原貞宗・甲斐守護武田政義は諏訪上社の祝部・藤沢正頼を追い出し、頼継(8歳)を新しい祝部とする。
1月2日、
比叡山の僧宥覚(ゆうかく)(新田義貞の配下)が築いた伊岐代(いきしろ)(草津市)を高師泰が一晩で攻め落とす。
1月7日、新田義貞
10000余騎は大渡を、脇屋義助7000余騎は山崎を、楠木正成5000騎は宇治を、名和長年2000騎は勢多を守る。(『太平記』)
1月10日、細川定禅・赤松範資が天皇方を山崎で破り、京都へ入る。宇都宮公綱・大友氏泰は尊氏に降る。

1月10日、新田義貞は京都へ帰り、後醍醐天皇は延暦寺に逃れる。
1月11日、結城親光が降参を偽って、大友貞範と差し違えて死ぬ。
1月12日、北畠顕家が奥州兵5万騎を引き連れて
近江国愛智川(えちがわ)駅に到着。
1月12日、新田方の大館幸氏が、佐々木時信が守る観音寺城を攻め落とす。
1月13日、宮方、湖を渡り坂本に到着。即座に戦端を開くことを決議するが、尊氏はこれを宇都宮公綱の勢
(味方)と誤解して援軍を送らなかった。(『太平記』)
1月13日、信濃で小笠原貞宗・村上信貞らが北条残党の籠もる清滝城
(松代町)を攻める。
1月14日、三井寺の戦い。宮方が勝利し、北畠軍は坂本で休養するが新田義貞は京へ攻め入る。
1月15日、小笠原貞宗・村上信貞らが麻績十日市場で北条に与する深志之介知光らと戦う。
1月16日、洛中で天皇方と足利軍が激しく交戦。足利勢70万、新田勢2万。
(←『太平記』)。新田義貞の勝利。
1月20日、洞院実世、持明院基行、堀川光継、二条為次、島津
上総入道貞久・中村・猿子・村上・仁科・高科・志賀ら2万騎が鎌倉から比叡山に来て、宮方に加わる。
1月23日、小笠原貞宗・村上信貞が香坂心覚の牧城を攻める。
1月27日、賀茂河原の戦い。宮方連合軍の圧勝。勝った軍勢が全て坂本へ引き揚げため、丹波へ逃げようとしていた足利尊氏は京へ戻る。
1月30日、京の武家方を追い払うために楠木正成が策謀。二条河原の戦い。足利尊氏は丹波篠山に逃げる。

2月2日、後醍醐天皇は比叡山を去って花山院を皇居とする。宗良親王もおそらく一緒。
2月2日、足利尊氏、丹波篠山曾地の内藤三郎左衛門道勝の元を発って、摂津国湊川に布陣する。
2月6日、手島河原の戦い。ほぼ引き分け。
2月7日、湊川の戦い。ほぼ互角だったが、大友貞宗が九州へ渡って勢力を立て直すことを進言する。
2月12日、尊氏、兵庫から海路で九州を目指して西走。
2月15日、尊氏、光厳院の院宣を備後の鞆で受ける。
2月20日、足利尊氏、長門国赤間関に到着。
2月25日、赤間の関に援軍として少弐頼尚
500騎が到着。
2月28日、兵力が薄くなった太宰府を菊池武俊・阿蘇惟直が攻める。
2月29日、「兵革」を理由に「建武」から「延元」に改元
。(太平記では2月25日)。武家方はこれを認めず「建武」年号を使い続ける。
2月29日、足利尊氏、筑前国芦屋の浦に到着。
2月29日、太宰府を守っていた少弐妙恵貞経、有智山城に逃れ自害。
(『梅松論』では30日)
3月1日、宗像大宮司が足利尊氏を迎え入れる。
3月2日、筑前
多々良浜(たたらはま)の戦い。足利尊氏大勝利。
3月15日、「阿蘇宮(あそのみや)」が内裏にて東寺所蔵の仏舎利を一粒もらい受ける。(『東寺仏舎利勘計記』) ※懐良親王以前に「阿蘇宮」を名乗った人がもうひとりいた?
4月3日、足利尊氏、太宰府を発し東上。
4月6日、後伏見上皇、持明院殿にて崩御。48歳。
5月21日、
葉室光顕(はむろはるあき)が斬首される。(この日付は『公卿補任』による。『尊卑分脈』では冬)
5月25日、摂津
湊川の戦い。楠木正成戦死。
5月27日、後醍醐天皇比叡山に逃げる。
6月、尊澄法親王、一品(いっぽん)に叙され、「山門一品の初例」を開いた。(『天台座主記』)
6月14日、
足利尊氏、光厳上皇と豊仁親王(光厳上皇の弟、15歳)を奉じて入京し、東寺に陣する。
8月11日、尊氏、山城国の革島幸政を御家人に取り立てる。
8月15日、豊仁(ゆたひと)親王践祚
(光明天皇)
10月13日、後伏見上皇の皇子
12月21日、後醍醐天皇、京都から出走して大和国吉野に移る。



(1337年、延元2<南朝>建武4年<北朝>) 宗良親王25歳

北畠顕家無双! 宗良親王還俗! 親王遠江へ入る!

1月1日、高師泰が越前金ヶ崎城の新田義貞を攻める。
   敦賀の瓜生保が新田に助勢したため但馬の北朝方に攻められる。新田義貞は息子の秋田介義宗を敦賀に派遣した。
1月2日、足利直義は河内の後醍醐天皇を封鎖するために、畠山国清と紀伊之人志富田兵衛太郎に南軍の進路を塞がせる。
1月4日、足利直義は高野山衆徒に、高野山が後醍醐天皇の臨幸を阻んだことを褒める書を与える。
1月8日、陸奥の北東蜂起し、北畠顕家は義良親王を奉じて国府を出て、霊山城に拠る。
2月5日、新田義貞・脇屋義助は金ヶ崎城を出て、杣山へ行き援軍を求める。
2月6日、南朝は金剛寺に兵糧を催促する。
2月12日、金ヶ崎城の南朝軍は城外へ出て包囲軍と戦う。
2月16日、瓜生以下金ヶ崎の城兵が出撃。
2月21日、北朝方の石塔蔵人は常陸関城を攻める。
2月24日、北朝方の佐竹義篤は小田治久の常陸小田城を攻める。
3月1日、美濃の鷲見忠保が南朝軍と谷汲で合戦。
3月2日、河内の南軍が古市に集結し、それを丹下西念が襲う。
3月2~5日、金ヶ崎城を毎晩夜襲。
3月5日、北畠顕家の兵は小山城を攻め、北朝軍と下条河原で戦う。

3月6日、攻囲軍が城内に侵入し、金ヶ崎城陥落。恒良親王は捕らえられ、
尊良親王自刃、新田義顕戦死。義貞は敗走する。
3月10日、細川顕氏と弟の直俊が河内国藤井寺で南軍を攻め、直俊戦死。
3月16日、南朝は結城宗広の勲功を賞して下総・下野の地を給う。
3月27日、熊谷直経が美濃の下長瀬で南朝軍と戦う。

春、後醍醐天皇は年中行事三巻を撰ず。また北畠親房に命じて延元礼節三百六十ヵ条を撰せしむ。
(『北畠准后伝』)
4月1日、越後の新田党の池・風間氏が挙兵するが、足利直義は上杉憲顕に命じて討たせる。

春、尊澄法親王(そんちょうほっしんのう)は還俗し、宗良(むねよし)親王と名を改める(『華頂要項』)
     
※親王宣下は16歳のときになされているので、自動的に「法親王」→「親王」となったと思われる。
5月12日、後醍醐天皇の中宮・珣子(しゅんし)内親王死去。
5月16日、越後の岩舟で、南朝方の小国政光・河内為氏・風間信濃守らと北朝方の色部忠綸・加治宗敬らが激戦。
5月、北畠顕信は宗良親王を奉じて伊勢一ノ瀬城に拠る。
6月9日、北畠親房は結城宗広に書を送り、小山朝郷の不遜をなじり、遠江の井伊氏と呼応して関東を平定することを勧める。
6月9日、足利尊氏は南朝方と通じた疑いのある堺浦の魚商に、売買を停止する命令を出す。
6月24日、北条時行が信濃国の大徳寺城に拠って挙兵を図る。
夏、宗良親王は伊勢一ノ瀬城で歌を詠む。
延元二年夏頃伊勢国一瀬といふ山の奥にすみ侍りしに、郭公を聞きて
深山をは ひとりないてそ
時鳥(ほととぎす) われも都の 人はまつらむ (『李歌集』)
夏、宇都宮公綱吉野に。宗良親王遠江井伊谷に。大館氏明は伊予で挙兵。江田行義は丹波高山寺城。金谷経氏は丹生山を守る。
夏、北条時行は吉野へ使いを送り、足利尊氏を討つことで贖罪することを乞う。南朝は詔してこれを許す(『大日本史』)。
7月4日、三方原で今川範国と井伊城の兵が会戦。
7月4日、坊門侍従国清、美作左近将監貞藤に生け捕られる。
7月5日、今川軍に属する山城国御家人松井八郎助宗は三方原で戦功を立てる。
(『蠹簡集(とかんしゅう)残篇』)
7月6日、今川軍が井伊城に総攻撃。
7月6日頃、春日顕国・忠貞綱ら下野小山城を攻める。
7月8日、桃井貞直、常陸関城を攻める。
7月、小田貞知は遠江井伊城を攻めて戦死。
8月3日、足利直義は院宣をもって吉野を攻めるため、諸国から兵を招集。

8月19日、北畠顕家は義良親王を奉じて結城宗広・伊達行朝・南部師行らを率いて白河城を出発、西上。
8月、宗良親王は加藤定有の軍功を賞す。
(『南狩遺文』)
8月、宗良親王は信濃国諏訪へ移る。
(『信濃雑志』)
8月、宗良親王は遠江井伊城に入り、井伊道政・高顕・天野一族がこれを守護する。
(『大日本史料』)
9月11日、南朝は勅を肥後の宇治惟時
(阿蘇大宮司)に発し、北畠顕家が京を目指していることを知らせ、援軍するように要請する。
10月8日、宗良親王は奥山城から井伊城に移る。
10月17日、楠木正家は春日顕国に従って佐竹義春の軍勢を大塚原で破る。
11月、守永親王(尊良親王皇子)を上野太守に任ず。(『南朝編年記略』)
12月、奥州軍は小山城を攻略し、小山朝郷を捕虜とする。
12月13日、北畠顕家の軍は利根川に達し、北朝軍を破る。
12月23日、北畠顕家鎌倉に入る。足利義詮逃げる。
12月25日、下野国の茂木知政は北畠顕家軍を追尾し、これと戦う。
12月25日、鎌倉合戦。
冬、新田義貞は杣山城を保ち、斯波高経と対峙する。楠木正家は北畠顕家に従軍。




(1338年、延元3年<南朝>建武5年→暦応(りゃくおう)元年<北朝>) 宗良親王26歳
春、宗良親王、遠江国・井伊谷で歌を詠む    

延元四年春頃遠江國井伊城に住み侍りしに  (※この「延元四年」は宗良親王の記憶違いとされる)   
はまなの橋の霞みわたりて橋本の松原湊の波かけてはるばるとみわたさるるあした
夕べのけしきおもしろく覺え侍りしかば
 夕暮は みなともそこと しらすけの 入海(いりうみ)かけて かすむ松原 (『李花集』・春歌
  はるばると 朝みつしほの 湊船 こき出つるかたは (なほ)かすみつつ (『李花集』・春歌

1月2日、北畠顕家が50万の大軍を率いて鎌倉を出発、京を目指す。
1月12日、北畠顕家軍、遠江国橋本宿を通過。この付近で宗良親王軍数千人が合流。
1月24日、北畠顕家軍、木曽川の支流・足近川付近で今川範国・三浦新介らと交戦。
1月28日、美濃
青野原(あおのがはら)の戦い。北軍惨敗。北朝側総大将・土岐頼遠、1000騎で奮戦するも生死不明に。
2月6日、
高師泰高師冬細川頼春佐々木氏頼ら兵10万、美濃・近江国境の黒血川(くろちがわ)に背水の陣。
   
北畠顕家は師泰との対決を避けて伊勢から吉野を目指す。(『太平記』巻9・巻10) 宗良親王も一緒だったと思われる。
4月13日、恒良親王(満13歳)、
粟飯原(あいばら)氏光から渡された鴆毒(ちんどく)を飲んで死去。(『太平記』巻19)
4月20日頃、恒良親王と共に毒を飲んだ成良親王
(満12歳)はこの日まで無事だったが、急に黄疸(おうだん)が出て死ぬ。(『太平記』巻19)
5月22日、北畠顕家、和泉堺の浦で高師直と戦い戦死。
閏7月2日、藤島城の戦いで
新田義貞戦死。
8月、後醍醐天皇、
結城宗広の献策により義良親王を奥州へ下す。
8月15日、奥州下向の軍勢、伊勢の鳥羽から船出。
9月、懐良親王
(満9歳)、九州に向けて伊勢を出立。随従は12人だったとされる。
9月11日、懐良親王、四国に到着。
(『元弘日記幷裏書』)
12月20日、懐良親王、初の令旨。肥後の
阿蘇惟時宛て。讃岐に到着し、次に伊予へ向かうと告げる。

(1339年、延元4<南朝>暦応2年<北朝>) 宗良親王27歳


3月、義良親王は伊勢より吉野へ帰り、皇太子となる。(『神皇正統記』)
4月末、懐良親王、伊予国・忽那(くつな)島に到着。
7月22日、遠江国で高師兼による鴨江城攻撃開始。攻撃者は高師泰・高師冬だとも。
    
※『瑠璃山年録残篇裏書』には鴨江城攻撃ではだれが指揮を執ったか書いていない
7月27日、鴨江城落城。

8月16日、後醍醐天皇、吉野にて義良親王に譲位したのち死去。49歳。
後醍醐天皇かくれさせ(たまひ)(ころ)よめる
おくれじと (おもひ)し道も かひなきは この世の外の みよしのの山 (『新葉和歌集』・哀傷哥

後醍醐天皇かくれさせ(たまひ)(ころ)遠江国井伊城にこもりて、ひまなく(はべり)しかば、まゐる事もかなはぬよしなど、
四條贈左大臣もとに(まうし)つかはすとて、(かの)城の紅葉にそへてつかはし(はべり)
思ふには (なほ)色あさき 紅葉かな そなたの山は いかがしぐるる (『新葉和歌集』・哀傷哥

8月18日、後醍醐天皇崩御の報が京都に届けられる。情報の真贋を巡って諸卿は右往左往し、
尊氏・直義は哀傷恐怖する。
9月6日、
美濃守護土岐頼遠による光厳上皇の牛車に対する狼藉問題。
10月5日、亀山殿を後醍醐天皇の菩提を弔う禪刹とすることを決定。(反対意見が多数生じる。)
10月30日、遠江国で高師兼の攻撃により、奥山朝藤の籠もる千頭峯城(せんとうがみねじょう)落城。
11月26日、等持院で後醍醐天皇の百箇日供養の曼荼羅供(まんだらく)足利尊氏が主催。
11月30日、美濃へ逃げた
土岐頼遠、幕府の説得を受け入れ大軍で上洛。臨川寺の夢窓疎石を訪れたところを捕縛。
12月2日、六角壬生
(太平記では6月1日六条河原)にて土岐頼遠斬首(40歳前後?)。
   頼遠の遺領と美濃守護職は甥の
土岐頼康(満25歳)に引き継がれた。

<相次ぐ合戦と苦難の流浪の時代>

(1340年、延元5年→興国(こうこく)元年<南朝>暦応3年<北朝>) 宗良親王28歳
遠江国の宗良親王の拠点すべて陥落!

1月29日、
高師泰仁木義長らが遠江国三岳城を陥落させる。
この頃、
北条時行が井伊城を出て信濃へ向かう。
5月27日、高師冬、下総の駒館城を攻め落とす。
6月24日、
北条時行が信濃国伊那郡の大徳王寺城に立て籠もる。諏訪頼継が余同する。
7月1日、
信濃守護小笠原貞宗が大徳王寺城の北条時行を攻める。
7月、新田義宗が越後と信濃の境にある志久見(しくみ)関所に押し寄せるが、志久見領主の市河倫房が押し返す。
8月1日、
斯波高経吉見頼隆らが越前金津城を攻略。
8月3日、千手城陥落。
8月20日、新田義宗、越後妻有(つまり)荘で挙兵して信濃との国境の志久見口の関所を破る。
8月21日、
新田義宗、信濃国・志久見口(しくみぐち)の合戦で敗れ妻有(つまり)荘へ戻る。
8月24日、
仁木義長遠江国大平(おいだいら)城を陥落させる。
10月23日、
北条時行の大徳王寺城が落城。
この年の暮れから翌年の秋にかけて、宗良親王が駿河国・安倍川の奥の狩野貞長の元に身を寄せる。(『南方記傳』)
駿河国貞長が許に興良親王あるよし聞きて、しばしたちより侍りしに
富士の煙もやとのあさげに立ちならふ心ちしてまことにめづらしげなきやう()なれど、
都の人はいかに見ばやしなましとまづ思ひいてらるれば、
山の姿など()にかきて為定卿の許へつかはすとて
みせばやな かたらば更に 言のはも 及ばぬふし(富士)の 高ねなりけり (『李花集』・雜歌



(1341年、
興国2年<南朝>暦応4年<北朝>宗良親王29歳
春、宗良親王、越後国・寺泊で歌を詠む
   興国二年越後國寺泊といふところにしばしすみ侍りしに帰鴈(きがん)をききて

ふる郷と 聞きしこし路の 空をだに なほうらとほく 帰る(かり)がね
(『李花集』・春歌

1月10日、
上杉顕定、色部(いろべ)高長に越後の南軍を討たせる。
3月24日、出雲隠岐守護佐々木高貞(=塩冶(えんや)判官)、いきなり京から姿をくらまし、数日後に自害。。
3月27日、
高師泰、遠江国・蒲御厨(かばのみくりや)の源清保に総検校職を安堵。(『蒲神明宮文書』)
閏4月、常陸国多賀郡の名主らが小田城の
北畠親房に錦旗を請う。(『常陸南北朝史研究』)
春、宗良親王が五十嵐氏を頼って
越後国寺泊(てらどまり)(新潟県長岡市)に移る。
5月頃、宗良親王の越後入りにより活発化した南朝勢力を掃討するため、
上杉憲顕、上野国から越後国に入る。
5月17日、越後国魚沼郡にて関合戦
。(『小林家文書』)
5月24日、越後国魚沼郡にて夢ヵ崎(いめがさき)合戦
。(『小林家文書』)
5月28日、
新田義宗、信濃国・志久見(しくみ)河で戦って敗れる。
6月1日、越後国にて、
色部高長・和田茂長阿賀北国人らが蒲原津城(かんばらのつじょう)を攻め、南朝方の小国一族を追い払う。(『色部文書』)
6月7日、越後の
上杉憲顕から鎌倉へ、「越後の城(ことごと)く打ち落とすの(よし)」、飛脚にて届けられる。(『鶴岡社務記録』)
6月14日、
上杉憲顕が南朝方300余人を討ち取ったことが鎌倉に飛脚で届けられる。(『武家年代記』)
7月、
(はた)六郎左衛門時能(ときよし)らが27名で籠もる越前国・鷹巣(たかのす)城を越前守護斯波高経高師春らが率いる兵7000で包囲する。
     
畑時能犬獅子(けんじし)という名の“不思議の犬”を駆使して、攻城方を翻弄した。(『太平記』巻23)
7月22日、
光厳上皇暦応寺(りゃくおうじ)の寺号を「天竜寺」と改めさせる。
9月18日、
脇屋義助が籠もる美濃国・根尾城が土岐頼遠・頼康に落とされ、義助は郎党73人を伴って熱田宮司の元へ逃れ、波津崎(羽豆崎)城へ入る。(『太平記』巻22<欠巻>
9月28日、
脇屋刑部卿義助、尾張国・波津崎(はづさき)を発って伊勢・伊賀を経て吉野へ向かう。(『太平記』巻23)
10月22日、
(はた)六郎左衛門時能(ときよし)、越前国・伊地知(いじち)城の攻防戦にて流れ矢に当たって落命。(『太平記』巻23)



(1342年、興国3年<南朝>暦応5年→康永(こうえい)元年<北朝>宗良親王30歳 
宗良親王、越中国で歌を詠む
   帰雁を聞きて

  
おなしくは 散るまてをみて 帰る(がん) 花の都の ことかたらなむ
  
同じ頃羇中(りちゅう)百首としてよみ侍りし中に
  
かへる(がん) こしちの嶺の へたてをも 我こえてこそ 思ひしりぬれ
(『李花集』・春歌

2月5日、
足利直義、疫病に冒されて甚だしく苦しむ。光厳上皇、石清水八幡宮に直義の治癒を祈願。その効で3日で快癒。(『太平記』巻23)
2月15日、
北畠親房常陸関城より陸奥白河の結城親朝に書状を出す。「家僕師直虎の威を借り重代の武士を陵轢す」。
2月、足利尊氏・直義の生母の上杉清子、没
『三宝院賢俊僧正日記』
3月、宗良親王、この頃越中国・名子(なご)の浦射水(いみず)市)にしのび住む。越前守石黒重之西栃波(にしとなみ)郡・木舟城主)が親王を守護する。
4月27日、天変・疾病を理由に「暦応」から「康永」に改元。

5月1日、
征西将軍宮・懐良(かねよし)親王(12歳)、薩摩国(山川港?)に到着し、九州に初上陸。
9月6日、美濃守護土岐頼遠光厳上皇の仙駕を狼藉する。
11月8日、興良親王、征夷大将軍に任じられる。(『伊勢記』)
12月1日、
土岐頼遠を斬罪に処す。
12月23日、足利尊氏・直義の生母の上杉清子(きよこ)、没
(73歳)。(『足利直義書状』『三宝院賢俊僧正日記』
    
 越後守護上杉憲顕(清子の甥)は宗良親王との戦いのため北陸を離れられず、子の憲将を京に遣わした。



(1343年、興国4年<南朝>康永2年<北朝>宗良親王31歳 
宗良親王、越中国で歌を詠む

  何ゆゑに 雪みるへくも あらぬ身の 越路(こしぢ)の冬を みとせへぬらむ (『李花集』・冬歌

1月27日、足利直義は書で越後にいる
上杉憲顕に対し、叔母(上杉清子、尊氏と直義の母)の葬儀に際して自身が越を離れず子を使わしたことを褒める。
5月、吉野から守永親王
(尊良親王の皇子)が、北畠親房の守る常陸国関城に下向。
8月、北畠親房が来援を期待していた
陸奥国白河小峰城の結城親朝が、石堂義房に内応して北朝に寝返る。
11月11日、常陸の関城と大宝城の2城落ちる。北畠氏の東北方面での優勢終わる。
   
関宗佑下妻政泰ら戦死。守永親王北畠顕信の守る陸奥国宇津峯(うづみね)城へ。興良親王は西国(どこか不明)へ。北畠親房顕時は吉野へ向かう。

(1344年、興国5年<南朝>康永3年<北朝>宗良親王32歳 


1月6日、左大臣近衛基嗣の邸宅で
成良(なりよし)親王死去する(18歳)
2月25日、高師冬、常陸国から鎌倉に入る。
春、宗良親王、信濃国大河原(おおがわら)へ移動する。
興国五年、信濃国大川原と申す山のおくに籠居侍りしに、ただかりそめなる山里のかきほ(かきね)わたり
見ならはぬ心地し侍りに、やうやうわかぬ春の光待ち出る 鶯の百囀も、むかし思ひ出られしかば
かりの宿 かこふばかりの 呉竹を ありしその()とや 鶯のなく (『李花集』)
春ごとに あひやどりせし 鶯も 竹のそのふ(園生)に 我しのふらむ (『李花集』)

7月4日、上杉憲顕、鎌倉に入る。
10月20日、足利直義、上杉憲顕に越後守護不足分を宛行う。



(1345年、興国6年<南朝>康永4年→貞和(じょうわ)元年<北朝>宗良親王33歳 


10月21日、天変・疾病を理由に「康永」から「貞和」に改元。



(1346年、興国7年→正平(しょうへい)元年<南朝>貞和2年<北朝>宗良親王34歳 
夏、宗良親王は信州大河原にありて千首の歌を詠む。

閏9月14日、
尾張国羽豆崎城陥落。城を守っていた新田氏の子(名は不明)を斬罪。
12月8日、天変・兵革を理由に「興国」から「正平」に改元。




(1347年、正平2年→<南朝>貞和3年<北朝>宗良親王35歳  

5月10日、南朝に与する海賊船数十艘、筑前宗像の大島・小島に押し寄せる。
5月26日、
小笠原貞宗、京都で死去(満53歳)。
5月~6月、熊野・瀬戸内海の海賊衆、薩摩国谷山に集結して北朝軍と戦う。
7月17日、高師泰は書を下し、
遠江国蒲御厨(かばのみくりや)総検校源清保職内田畠を、座主入道横領狼藉を止める。(『蒲神明宮文書』)
8月10日、楠木正行の兵、
紀伊隅田城を攻める。
9月17日、
河内国藤井寺合戦。楠木正行軍700が細川顕氏・宇都宮三河入道・佐々木道誉らの軍3000を奇襲して破る。
11月26日、摂津住吉合戦。
12月14日、懐良親王、肥後葦北郡に至る。
12月26日、高師直・師泰、河内の南軍攻略のため京都を発す。




(1348年、正平3年<南朝>貞和4年<北朝>宗良親王36歳 

  四條畷の戦い! 南朝方の大敗北!


1月2日、懐良親王、肥後国宇土津に到着。
1月5日、河内国で四條畷(しじょうなわて)の戦い楠木正行戦死。
1月6日、南朝宮将軍
(=興良親王?)、敗戦の痛手を補うために和泉の和田(みぎた)一族に軍勢を催促する。(『和田文書』)
1月10日頃、後村上天皇が吉野から退去し、行宮を大和国賀名生(あのう)に定める。
1月14日、懐良親王、宇土を発ち益城郡の御船城に入る。
1月半ば、西大寺長老、南北和睦の仲介をとろうとする。
1月15日、
高師直、大和国平田荘まで進出し、南朝と講和交渉をおこなう。
1月24日、
高師直・師泰吉野に攻め込む。後村上天皇、紀伊へ移る。
1月28日、吉野炎上。
1月、興良親王は和泉国で軍勢を集める。
(『南山皇胤譜』)
2月13日、
高師直・師泰、京へ凱旋する。
3月18日、南朝、
恵良惟澄を筑後権守に任ずる。
4月16日、
足利直義、「紀伊国凶徒退治」のために足利直冬を派遣することを後藤摂津七郎・長浜五郎に伝える。
4月22日、
足利直冬、「紀伊国凶徒退治」の成功を祇園社に祈願する。
5月28日、
足利直冬、紀伊に出陣。
7月、
北畠顕信村松家行(伊勢神宮外宮の禰宜)ほか山田の軍勢を率い、船5艘で大湊を出帆。知多半島の羽豆崎(はずざき)城に拠る。
8月8日、
足利直冬紀伊にいたり、南朝方の軍と戦う。
9月28日、
足利直冬凱旋。しかし直冬の戦果は京ではあまり評価されず、直冬は失意したという。



(1349年、正平4年<南朝>貞和5年<北朝>宗良親王37歳   

足利直義が南朝へ降る。

2月26日、京都東山の将軍塚が鳴動して、虚空に軍馬の駆ける音がする。(『太平記』巻27)
2月27日子の刻、清水寺炎上。昼頃、四条河原で行われていた田楽の桟敷で将棋倒し。“天狗風”の仕業と噂される。
(『太平記』巻27)
春、尹良王上野国寺尾城に移る。(『信濃宮伝』)
3月14日、京都土御門東洞院(つちみかどひがしのとういん)足利尊氏の邸宅が火災に遭う。尊氏、一条今出川の高師直邸に移る。
4月11日、
足利直冬が長門探題となって西国へ赴く。
閏6月初め、直義が三条殿に師直を呼びつけ、大高重成宍戸朝重に暗殺させようとしたが、直前で粟飯原清胤(あいはらきよたね)が寝返り、師直は一条今出川に逃げ帰った。(『太平記』)
   以後高師直、病気を装って出仕をやめる。
閏6月2日、足利直義高師直との間の戦争の噂に、京内が騒然とする。(『園太曆』 ※上記の出来事の後の記述らしい)
閏6月3日、直義派の参謀・
妙吉(みょうきつ)が西国へ下向。(備後国(とも)にいた足利直冬の元へ向かった?)
閏6月7日、
足利尊氏が三条殿を訪れて直義と会談。
閏6月15日、
高師直が執事を解任される。所領も没収される。
閏6月16日、直義派の上杉朝房(うえすぎともふさ)仁木義氏(尊氏派)に代わって内談頭人(ないだんとうにん)に就任。
閏6月20日、
高師泰の息子である高師世(こうのもろよ)が執事に就任。
閏6月30日、
足利直義が持明院殿に参内し、光厳上皇に軽く一連の事件の説明をする。(※異例の事)
この頃、高師直の失脚を機に足利直義の花押が著しく巨大化する。
7月9日夜半、
足利基氏(満9歳)、鎌倉に向けて出立。元服前の少年にたった100騎が供奉する寂しい出立であった。(『園太曆』 ※9月9日の到着の誤りの記事であるとも)
7月21日、
河内国石川城で楠木正儀を攻めていた高師泰が大軍を率いて京都に向かう。畠山国清が石川城の守備を任される。
8月10日、
足利尊氏丹波国篠村(しのむら)八幡宮(亀岡市)に参籠。
8月10日夜、
足利尊氏、新築なった土御門東洞院邸(つちみかどひがしのとういんてい)に入る。
8月12日、
足利直義の三条殿と高師直の一条今出川邸に、双方の支持者が集結。
   直義方は、
石塔頼房・上杉重能・上杉朝房・畠山直宗・石橋和義・南宗継・大高重成・島津光久ら、総勢三千騎。
   師直方は、
高師泰・仁木頼章・仁木義長・仁木頼勝・細川清氏・山名時氏・吉良満義・今川範国・今川頼貞・千葉貞胤・宇都宮貞宗・土岐頼康・
     佐々木道誉・六角氏頼・武田信武・小笠原政長・戸次頼時
ら、総勢五万騎。(『太平記』巻27)
8月14日、
高師直足利直義を攻める。直義は尊氏の呼びかけで土御門の尊氏の新邸へ逃れる。師直軍、尊氏邸を包囲。(「御所巻(ごしょまき)」)。
   尊氏邸の北隣の内裏にいた
崇光天皇光厳上皇の持明院殿に避難。尊氏兄弟は切腹を覚悟して軽装で待機。
   
須賀清秀が尊氏側の使者を務める。師直は上杉重能・畠山道宗・妙吉・斎藤利泰・修理進入道の身柄を要求。
   尊氏は
上杉重能畠山道宗を流罪にすることにする。
   直義は引退し、鎌倉にいる
足利義詮を呼び戻して「三条殿」の地位に就けることが決まる。
   夜、直義は三条殿に、師直は一条今出川に戻る。
8月15日、
上杉重能畠山道宗の二人が配流先の越前国に向けて出発する。
9月9日、
足利基氏(満9歳)が初代鎌倉公方として鎌倉に到着。上杉憲顕(直義派)高師冬(尊氏派)が執事となる。
9月10日、尊氏は直冬の討伐を図る。
9月13日、足利直冬、肥後国へ落ちる。
10月3日、
足利義詮、京に向けて鎌倉を発つ。
10月22日、足利義詮上京。高師直ら諸大名が近江国瀬田まで出迎えに向かう。大勢の京都市民がこれを見物。
10月25日、
足利義詮、錦小路堀川の細川顕氏邸に移っていた足利直義と面会。
10月26日、
足利義詮、三条殿に入って政務を執り始める。
12月6日、
上杉重能畠山道宗が配流先から100騎を引き連れて越前国足羽荘(あすわのしょう)に移ったという報が入る。(『園太曆』)
12月8日、
足利直義が出家。「恵源」と号す。
12月13日、足利尊氏は島津貞久に直冬討伐を命ずる
。(『此志島文書』)
12月23日、今川範国が松井助宗に遠江国・尾奈郷を与える。
(『蠹簡集残篇』)
12月、足利直義が南朝へ下る。




(1350年、正平5
<南朝>/貞和6年→観応(かんのう)元年<北朝>) 宗良親王38歳
観応の擾乱!
8月20日、足利義詮・高師直らが美濃の土岐周済を平らげて帰京。
9月、越後の新田党が如法寺で挙兵、上杉憲将と戦う。
10月16日、足利直冬が九州で挙兵。少弐・大友両氏がこれに従う。
   これに対し足利尊氏は義詮に京都を守らせ、自ら軍を率いて九州へ向かう。
10月21日、尊氏は信濃守護の小笠原政長に、直冬征伐へ同行するために上洛を命ずる。
10月26日、
足利直義知久四郎左衛門(南伊那の豪族)を伴って京都を出奔。
11月3日、南朝方の
井上布袋丸能登国富木院木尾嶽(とぎいんきおだけ)で挙兵。
11月23日、
足利直義南朝に降り、畠山国清吉良貞氏らがそれに従う。
12月24日、駿河国で
狩野孫左衛門(安倍城)・石塔家人の佐竹兵庫亮(志太郡大津)らが駿府府中に出撃。
12月1日、
鎌倉執事上杉憲顕は直義に呼応して南朝に寝返り、息子能憲の謀叛を討つとたばかって上野国に赴いて、そこで兵を集合。
12月13日、
後村上天皇、綸旨を発して足利直義の帰降を認める。
12月25日、もう一人の鎌倉執事・高師冬上杉憲顕を討つため足利基氏を奉じて鎌倉を出立。
12月29日、
石堂義房が寝返り、相模国毛利庄湯山で足利基氏を奪還。
12月、
高師冬は甲斐に逃れ、速見城(北巨摩郡)に入り、ついで須沢城(中巨摩郡)に移った。


(1351年、正平6<南朝>観応2年<北朝>) 宗良親王39歳

  正平の一統!

1月2日、
信濃守護諏訪直頼(直義派)が諏訪郡で挙兵。
1月4日、
上杉憲将(直義派)が越後勢数千騎を率いて甲斐へ進撃。
1月5日、
諏訪直頼埴科郡船山郷の守護館を攻めて放火。
1月9日、「妙法院宮先朝皇子」が比叡山に至ったという伝聞があった。(『観応二年日次記』)
1月10日、直義の命を受け
諏訪下社祝諏訪盛世が6千騎を率い、上杉憲将とともに須沢城の高師冬を襲撃。
1月15日、直義派の
越中守護桃井直常近江坂本から入京して足利義詮を駆逐。高師直師泰らの邸宅炎上。直ちに尊氏師直が京に突入し半日間の激闘。桃井軍は関山に逃れる。
1月16日、
尊氏は三条河原に陣していたが、離反する者が後を絶たないため、西方に撤退。丹波を経て播磨国書写山へ入る。
1月17日、
甲斐国須沢城において高師冬自害。
2月17日、
摂津国打出浜(うちではま)の戦い。足利直義尊氏師直軍を打ち破る。
2月26日、
上杉能憲(よしのり)により高一門殺害される。足利直義政務に返り咲く。
3月2日、南朝常陸親王
(満良親王?)、令旨を使わして出雲の諏訪部信恵を召す。
3月3日、足利直冬、鎮西管領となる。
3月29日、懐良親王の生母である
従三位藤子(じゅさんみとうし)没する。(彼女は西園寺禧子に仕えていて「中宮宣旨(せんじ)」と呼ばれた。←「宣旨」の由来は不明)
7月19日、足利直義再び政務を辞す。
7月~8月、
足利尊氏が南朝への投降を画策。(『観応二年日次記』)
8月1日、
足利直義、北国へ逃走。
9月29日、南朝宮将軍(=興良親王?)、播磨守護赤松則祐(北朝方)に播磨国内の東寺領矢野庄西方内重藤名等を寺家雑掌に渡すよう命ず。(『東寺百合文書』)。赤松則祐はこれに応じる。
9月~10月、
菊池武光、懐良親王を奉じて肥後・筑後を転戦。
10月24日、後村上天皇、
足利尊氏義詮の南朝への帰順を認める。
11月3日、足利尊氏義詮が後村上天皇に対して請文(うけぶみ)を提出する。(『園太曆』)
11月4日、
足利尊氏は鎌倉の足利直義を倒すため15騎で京を出立。仁木頼章・仁木義長・畠山国清・千葉氏胤・武田信武・二階堂行珍がこれに供奉。
11月7日、
崇光天皇の廃位。(『椿葉記』)
11月8日、尊氏の後を追って鎌倉に発とうとした足利義詮を、尊氏の命を受けた饗場命鶴丸と朽木某が制止。
12月18日、南朝は「三種の神器」を接収することを旧北朝側に通達。
12月末、後村上天皇、二条師基を関白に任命。




(1352年、正平7<南朝>
観応3年→文和(ぶんな)元年<北朝>) 宗良親王40歳

 
 武蔵野合戦! 南朝方の大敗北!

2月3日、後村上天皇が入洛を開始する。

2月26日、
足利直義、鎌倉で死去。暗殺されたという説が有力。
2月28日、後村上天皇、摂津国・住吉宮に行幸する。
閏2月6日、宗良親王、征夷大将軍に任ぜられる。
・遠国に久しく住み侍りて、今は都の手ぶりもわすれはてぬるのみならず、ひたすら弓馬の道にのみたづさはり侍りて、征夷将軍の宣旨など給はりしも、
我ながらふしぎにおぼえ侍りければ、歌よみ侍りし次に
(『李花集』)
・あづまのかたに、ひさしく侍て、ひたすらものもふの道ののみたづさはりつつ、征東将軍の宣旨など下されしも、
おもひのほかなるやうにおぼえて、よみ(はべり)
(『新葉和歌集』)
思ひきや 手もふれざりし
梓弓( あづさゆみ) おきふし我が身 なれむものとは (『李花集』 『新葉和歌集』・雜下哥

閏2月9日、式部卿親王
(=宗良?)、令旨を使わして越後村山信義の忠節を賞す。
閏2月15日、関東の南軍、上野で挙兵。
閏2月15日、後村上天皇、住吉を発して天王寺へ行宮を移す。
閏2月16日、新田義興・義宗が上野国中を焼き払い、武蔵国に入る。
   
新田軍は20万騎と伝えられ、鎌倉には千騎しかなかったが、「逃げたと伝わると全てが敵に回る」と言って尊氏は500を率いて鎌倉を出て、武蔵国・久米川に陣する。(『太平記』)
閏2月18日、南軍、鎌倉を占領。
閏2月19日、後村上天皇、摂津国・天王寺から山城国・男山八幡の陣
(石清水八幡宮)に入る。
閏2月20日、北畠顕能・千種顕経・楠木正儀ら京都に突入し、七条大路で合戦。細川頼春が戦死し、足利義詮・佐々木道誉・細川顕氏らは近江へ敗走する。
   あとに残された光厳・光明・崇光の三上皇と廃太子の直仁親王を男山に拉致。
(『椿葉記』)
閏2月20日頃、
宗良親王、上野国と武蔵国の境にある笛吹峠に到る。新田義宗がこれを迎える。
    
※「笛吹峠」の名の由来は、「陣中の宗良親王が月明かりのもとで笛を奏でたから」とする伝承がある。
閏2月20日、金井原の戦い
(東京都小金井市)。人見ヶ原の戦い(東京都府中市)。
閏2月23日、京にいる足利義詮、「正平」年号の使用を止める。(正平の一統の終焉)
(『朽木文書』)
閏2月28日、小手指河原の戦い。
武蔵国へうちこえて、小手指原といふ所へおりゐて、手分など(はべり)し時、
いさみあるべきよしつはものどもに、めし(おほせ)(はべり)しついでに、(おもひ)つづけ(はべり)
君のため 世のためなにか をしからむ すててかひなる 命なりせば (『新葉和歌集』・雜下哥

3月15日、足利義詮、佐々木道誉・細川顕氏・土岐頼康・斯波高経らを率いて京を奪還。男山八幡を包囲。
3月下旬、熱田大宮司・吉良満良・石塔頼房・原・蜂屋らが尾張で蜂起。迎撃に出た美濃守護代を打ち破る。
4月、信濃で
諏訪氏小笠原氏が戦う。足利直義の死亡後、諏訪氏は劣勢。信濃守護小笠原政長が陣中で病没。(『信濃史料』)
4月27日、男山から各地に軍勢集結の指令が飛ぶ。児島高徳の来訪をうけて新田義宗・桃井直常ら一万余騎が越中国・放生津(ほうじょうづ)を出発。
   同日、吉良満貞・石堂義房が駿河を出発。

   
同日、信濃宮(=宗良親王)(じん)・滋野・伴野・上杉(憲顕)・根津・仁科らを伴って信濃を出発。
   
同日、伊予から土居・得能(とくのう)氏らが兵船700を駆って京を目指す。(『太平記』巻三十一)
5月11日男山戦争。総攻撃をおこなった足利義詮の勝利。後村上天皇は男山八幡を脱出し、石見宮(いわみのみや)(=詳細不詳の人)・四条隆資・白河公冬・源具忠ら戦死。

   光厳・光明・崇光の三上皇と廃太子の直仁親王を大和国の加名生(あのう)の離宮に移す。
(『椿葉記』)
5月11日、男山(おとこやま)の陥落を知った宗良親王らが引き返す。(『信濃勤王史攷』)
6月3日、幕府は広義門院
西園寺寧子(さいおんじねいし)、西園寺公衡の娘。後伏見上皇の女御、光厳上皇の母)に「治天の君」となることを要請するが、広義門院は激しく拒否。
6月19日、広義門院(こうぎもんいん)は「治天の君」となることを受け入れ院政開始。女性として歴史上唯一の「治天の君」。
8月17日、
継体天皇以来の「群臣議立(ぐんしんぎりつ)」によって弥仁親王(光厳の第二皇子)後光厳天皇として践祚
  
弥仁(いやひと)王は閏2月の時点では妙法院への入室を予定されていた目立たなかった(だから捕縛を免れた)皇子で、6月ぐらいに急遽親王宣下されたと推察される。
8月26日、
山名師義への男山での功労を佐々木道誉が反故にする態度を見せたため、山名時氏師義は怒って伯耆国へ帰る。(『太平記』)
9月15日、
山名時氏佐々木道誉の分国である出雲国を攻めるため、出雲国三刀屋郷の諏訪部扶重に軍勢を催促する。(『後鑑』)
9月、山陰の
道誉所領はまたたくまに時氏に攻め取られ。時氏は出雲・隠岐・因幡を手にして四ヶ国の太守となった。
   富田判官・伊田・波多野・矢部・小幡らの国人は時氏に余同し、出雲の目代・吉田厳覚
(近江源氏の一族)は富田城を追われる。
9月27日、北朝、新天皇の即位を理由に「観応」から「文和」に改元。
11月16日、
山名師義が備後国鳥取荘へ攻め入り、石橋和義と戦う(『備後鼓文書』)。石橋和義は石見国の武士を動員して防衛。




(1353年、
正平8年<南朝>文和2年<北朝>) 宗良親王41歳

1月10日、備後国鳥取荘へ侵攻した山名軍に迫山合戦で石橋和義は大敗。(『備後鼓文書』)
1月か2月、
周防前司・天野景顕が、捕らえた興良親王を伴って上洛。
   
北朝は宗良親王とゆかりの深い二条為家の邸に興良親王を拘禁するように命ずる。(『信濃宮伝』)
2月、宗良親王、駿河国田貫にあり、2万の兵が護る。
(『翁草』)
   
(田貫湖付近の宇津野にいた田貫次郎実長という人は元・浅間大社の神官だった人で、のちにその娘が尹良親王の妻となったと伝わる)
2月11日、今川範氏と伊達景宗が徳山城の外城である萩多和城
(静岡市大川)を攻める。
2月13日、今川範氏、藁科峠の護応土城を攻める。
2月13日、北畠顕能、大和国に入る。
2月16日、今川範氏、徳山城
(無双連山)の稜線にある朝日山陣場を占領。
2月25日、今川・伊達軍、徳山城を攻め、鴇
(土岐)彦太郎・佐竹兵庫入道ら敗退する。
4月5日、桃井直常と上杉民部少輔らが越中国・氷見芝峠で天野遠政を攻める。
5月4日、陸奥国・田村庄の宇都城落ちる。
5月6日、伯耆守護/丹波守護であった
山名時氏は南朝方につくことを表明し、伯耆を出発。
5月20日、
北条時行が鎌倉龍の口で斬られる。(『諏訪史』では5月26日)
6月2日、
山名時氏但馬国三開山城(みひらきやまじょう)(時氏の本拠地)に到着。
6月6日、
後光厳天皇が比叡山に行幸。
6月9日、
楠木正儀(くすのきまさつら)石塔頼房(いしどうよりふさ)山名時氏が京の神楽岡・吉田河原で足利義詮を撃破。
   
高師詮赤松則祐が急行したが間に合わず、義詮は後光厳天皇を連れて近江坂本へ逃亡。京を南軍が占領。
6月13日、
土岐頼康の進言で後光厳天皇は美濃国へ避難。垂井長者の家を仮の宮とする。(『小島のすさみ』)
6月14日、
後光厳天皇美濃国小島城(土岐頼康の本拠地)に遷り、行宮とした。(『小島のすさみ』)
7月10日、
足利義詮、京に向けて進軍。
7月23日、北朝方の
石橋和義赤松則祐が摂津に入る。南軍総大将四条隆俊が京を出発。
7月24日、山名時氏・吉良満貞・石堂頼房ら京を去る。
7月28日、楠木正儀、河内に退去。島津師久入京。
8月1日、足利尊氏、鎌倉を出発し京に向かう。
8月28日、能登守護の吉見正頼の子・
修理亮詮頼、長胤連と桃井兵庫助直和を討つために能登島に上陸。
9月5日、能登で北朝方の桃井義盛と南朝方の桃井直信・長胤連が争う。
        
桃井義盛は桃井氏の本宗で、桃井直信は庶流の桃井直常の弟、直和は直常の子。
     能登天野氏の天野
遠江守遠政は桃井義盛に付く。
9月、金頸城が落城し、長胤連は戦死
残党は能登島にて激しく北軍に抵抗。
11月5日、宗良親王は越後国・小国城にて和田氏と戦って敗北。
11月8日、和田義成、阿賀川を越えて進軍。宗良親王・新田義宗、新堀宿で迎え撃って打ち破る。




(1354年、正平9年<南朝>文和3年
<北朝>) 宗良親王42歳

2月、越後荒川流域の上杉憲顕が宗良親王に降る。
  
(息子の上杉憲将が憲顕と一緒に行動していたかどうかは不明)
2月25日、
仁木義長が遠江国浜松荘鴨江寺等に安堵状。
3月、宗良親王、越後の新田勢とともに魚沼郡宇加地方に進軍。
3月、京で
尊氏方と直冬方の合戦。戦いは長期に及び、糧食が尽きて直冬方が退散。
4月7日、
北畠親房、賀名生で死去。(『李歌集標註』)
5月21日、
足利直冬が石見国から再び京を目指し、石見国温泉郷で小笠原左近将監と交戦。直冬が勝利して突破。
7月5日、大河原にて尹良親王生誕?(諸説あり)
8月4日、幕府は今川範国に命じて、南朝方の最勝光院領の遠江原田荘の押妨を止めさせる。
  (最勝光院の全国20ヶ所に及ぶ荘園は、かつて後醍醐天皇によってすべて東寺に寄進されていた)
9月15日、
北畠親房大和国宇陀郡福西庄阿弥陀院にて死去。(『北畠准后伝』)
9月23日、宗良親王・千種顕経・新田義宗・脇屋義治ら、魚沼郡宇加地方で北朝方の三浦和田軍と交戦。
12月24日、
足利直冬と桃井直常が京へ突入。足利尊氏は後光厳天皇をつれて近江国へ逃げる。
12月27日、
足利尊氏、常陸の佐竹義春に越後の南軍征討の命を出す。

(1355年、正平10年<南朝>文和4年<北朝>) 宗良親王43歳

   
運命の決戦!桔梗ヶ原の戦い!

1月10日、桃井直常入京。
1月15日、桃井直常近江坂本へ。
1月22日、足利直冬・山名時氏・石塔頼房ら入京。
  直冬は東寺実相寺に、楠木正儀は男山に、山名時氏は西山に陣す。
  尊氏比叡山へ移動。
(『瑠璃山年録残篇裏書』では「清水(きよみず)将軍塚」。)
2月6日、摂津神南の戦い。南軍敗北。
3月4日、越後・顕法寺城で南朝方の上杉憲将・宇佐美一族挙兵。
  北間長頼がこれを攻めて破る。
3月12日、七条洞院の戦い。
3月13日、足利尊氏・義詮入京。
4月2日、越後・青海荘加茂口陣峯の戦い。南軍敗退。
  
勝った和田茂資はさらに南軍を追って三島(さんとう)郡の各所で宗良親王・脇屋義治らと戦う。
  
(志都乃岐荘・木野島・大島荘・平等原など)
5月か6月、宗良親王、新田一族の劣勢を見て信濃の諏訪に移る。

  
すはの海や 氷をふみて 渡る世も 神し守らは 危うからめや (『李歌集』)
7月26日、宗良親王、信濃の軍
(諏訪上下祝・仁科氏)を率いて西上を図る。
8月なかば、宗良親王、大河原に座す。ここから多数の令旨を関東諸州に発布。
8月20日、信濃国・
桔梗ヶ原の戦い。宗良親王が小笠原信濃守長亮を攻める。
  
一説に、諏訪の上社の権祝(ごんのはふり)・矢島左衛門尉正忠と仁科氏が大河原にいる宗良親王のもとに向かったとき
  伊那谷付近で小笠原勢に妨害を受けたので、転進して桔梗ヶ原で決戦になったという。
  このとき、下社の大祝・金指氏は北朝方に寝返った。
  
参戦した一族;(南朝方)小出・藤沢・千野・香坂・知久・平栗・早出・武居・上原・金子
      (北朝方)小笠原・坂西・麻生・麻沢・山沢・平瀬・古野・新井・赤沢

  この戦いで矢島正忠は流れ矢にあたって戦死。
  (この合戦の勝敗は定かではないが、以後宗良親王の活動の記録は極端に無くなる)


<挽回不能な晩年へ>

(1356年、正平11年<南朝>文和5年→延文(えんぶん)元年<北朝> 宗良親王44歳

1月9日、直冬方であった越前守護・斯波高経、尊氏に下る。
2月10日、南朝方の上杉憲将が信濃国北部の高井郡に入り、北信濃の古豪・市河助房がつく。
10月23日、市河経高が小菅で高梨仁位を討ち取る。
10月28日、平林合戦。
平林は市河氏の拠点で、小笠原氏の助勢を得た高梨氏が平林に攻め込んだ。


(1357年、
正平12年<南朝>延文2年<北朝>) 宗良親王45歳

1月、花山院信賢と家賢の兄弟が北朝を辞して河内国金剛寺の南朝行宮に参ずる。
5月、後村上天皇が河内国・観心寺に行幸。
閏7月22日、北朝の家督者(治天の君)であった広義門院(西園寺寧子)、崩御(満65歳)
12月18日、
後光厳天皇相良定頼を遠江守に任ず。


(1358年、
正平13年<南朝>延文3年<北朝>) 宗良親王46歳

4月30日、
足利尊氏死去。
8月22日、京で足利義満生誕。幼名;春王。母は紀良子(きのりょうこ)
9月、信濃にいた宗良親王に勅命。
  「東国の賊兵攻上る由聞ゆれば、早く上洛すべし」
  だがこの年は雪が早く降ったため、それは果たせなかった。
(『桜雲記』)
9月21日、北朝方であった天野一族の中で、天野兵部権少輔が南朝に寝返る。
  
南朝方左馬頭天野兵部権少輔に奥山郷三分の一の地頭職に任じる。
   (この「左馬頭」が誰なのかは謎)
10月10日、
新田義興、矢口の渡しにて横死。
10月10日、
細川清氏が「武家管領」に就任。(『愚管記』) ※「管領」という語句の初出だが、実質は「幕府執事」への就任だと思われる。
11月、北朝方
畠山道誓入道、20万を率いて鎌倉を発ち、京を目指す。
  表向きは「南軍征討」であったが、真の目的は政敵の
仁木義長を討つためであった。
  
・伊那の座光原で香坂高宗が200余騎で畠山軍と交戦。
12月3日、足利義詮の「評定始」。細川清氏・佐々木道誉・土岐頼康らが出座。



(1359年、正平14年<南朝>延文4年<北朝>宗良親王47歳 

8月6日~7日、
筑後国大保原の戦い(筑後川の戦い)。懐良親王・菊池武光が少弐・大友・城井らの大軍を打ち破る。
10月10日、
武蔵国多摩川の矢口渡(やぐちのわたし)で、新田義興が片沢右京亮と江戸遠江守に謀られて討ち取られる。(『太平記』)
12月、足利義詮、細川清氏・畠山道誓らと京都を進発。



(1360年、
正平15年<南朝>延文5年<北朝>宗良親王48歳

2月7日、足利基氏、高麗・金子・別府・波多野氏らに上洛を命ずる。
3月14日、二条為定(=宗良親王の従兄)死去。67歳。
正平十五年三月十四日御子左(みこさ)大納言入道身まかりけるよしきこえしかは
あはれともなかなか言のはもなき心ちし侍りて、月日をのみなけきくらし侍りし程に、
都へ便宜ありしかは哀傷五十首よみて為遠朝臣のもとへつかはし侍りし
(『李花集』)
哀傷五十歌
4月25日、護良親王の皇子(将軍宮=興良親王?)、足利義詮に内通して赤松氏範と共に銀嶽(しろがねがたけ)で挙兵。兵200で賀名生(あのう)の内裏を焼く。
4月26日、
(さきの)関白二条師基、兵1000を集めて銀嶽に籠もる将軍宮を攻める。
4月27日、将軍宮は南都へ逃亡。赤松氏範は降服。「不思議なりしご謀叛なり」(『太平記』)。
11月6日、畠山国清、東国勢を率いて上洛する。




(1361年、正平16<南朝>
延文6年→康安(こうあん)元年<北朝>) 宗良親王49歳  

3月30日、前年から続く疾病流行を断ち切るため「延文」から「康安」に改元。
3月31日夜半、四條富小路で大火が起こり、改元に対する批判が沸き起こった。

6月14日、後光厳天皇が赤斑病沈静を祈って般若心経を転読させる。
6月18日、大地震。阿波の由岐湊に大津波。
6月21日、大地震が起こり、東寺など倒壊する。
6月22日、京に雪が降る。
7月24日、摂津国難波湊に大津波。周防国の周防鳴門が干上がって巨大な鐘が現れる。
(『太平記』36)
8月24日、大地震が起こり、四天王寺の金堂が倒壊する。
9月23日、足利義詮、新熊野に立て籠もり、
細川清氏討伐の命を発する。清氏は若狭国へ逃亡。
9月28日、
摂津国天神の森で和田正氏楠木正儀佐々木秀詮・氏詮兄弟を奇襲して討ち取る。
9月29日、
若狭国椿峠で細川清氏討伐軍を迎え撃つが、配下の頓宮(はやみのみや)四郎左衛門に裏切られて敗退。摂津に逃れて四天王寺で南朝方に帰順する。
11月26日、
畠山国清(道誓)、基氏に追われて鎌倉を落ち、伊豆へ向かう。
12月7日、
石塔頼房細川清氏ら、摂津国四天王寺から京に侵攻。
12月8日、足利義詮・後光厳天皇、近江国の武佐寺に逃れる。
12月24日、足利義詮、
佐々木道誉佐々木崇永・今川貞世・斯波高経・土岐桔梗一揆らを率いて京に侵攻。
12月27日、近江の武佐寺(むさでら)
(長光寺)にいた後光厳天皇に、足利義詮から「京を奪回したのでご帰還あれ」という書状が届けられる。



(1362年、正平17<南朝>
康安2年→貞治(じょうじ)元年<北朝>) 宗良親王50歳  

正月、再起を期した細川清氏が本領の阿波国に渡る。
3月13日、後光厳天皇が京の北山殿に帰還。
5月、再び赤斑病が流行。
7月22日、10年前に死んだ足利直義が神として天龍寺に勧請され、「大倉二位大明神」
(正二位)の神号が授与される。
7月24日。
讃岐国白峰(しらみね)の戦い。細川清氏細川頼之に討たれる。
9月、
畠山国清(道誓)、足利基氏に降服する。
9月23日、兵革・天変を理由に「康安」から「貞治」に改元。



(1363年、正平18<南朝>
貞治2年<北朝>) 宗良親王51歳
宗良親王は東国の残存勢力を糾合し、上野国(こうづけのくに)で戦っていた。
2月4日、遠江国天野直景、吉良満貞に属して三河国竹島で戦う。(『天野文書』)
3月24日、足利基氏は上杉憲顕に関東管領に復帰を請う書を送る。
6月17日、越後から鎌倉へ向かう上杉憲顕を害そうとした芳賀禅可(はがぜんか)
(宇都宮の一党)を、武蔵国苦林(にがばやし)(埼玉県毛呂山町)で足利基氏が討つ。(『太平記』)
8月20日、足利基氏は芳賀禅可を討つため出兵し、岩殿山で勝利する。
(『宇都宮家蔵文書』)※太平記とは異なる記述




(1364年、正平19<南朝>
貞治3年<北朝>) 宗良親王52歳 




(1365年、正平20年<南朝>
貞治4<北朝>) 宗良親王53歳  



(1366年、正平21<南朝>
貞治5年<北朝>) 宗良親王54歳 

6月23日、南朝歌壇の重鎮・花山院家賢(かざんいんいえかた)が吉野で死去。



(1367年、正平22<南朝>
貞治6年<北朝>) 宗良親王55歳 

4月22日、鎌倉公方・足利基氏病没。28歳。
12月7日、将軍・足利義詮病没。38歳。




(1368年、正平23<南朝>
貞治7年→応安(おうあん)元年<北朝>) 宗良親王56歳

2月24日、桃井直常は京から逃れて越中へ帰る。(『花営三代記』)
2月25日、上杉憲顕が上洛した隙を狙い、河越直重を中心とする武蔵国の平一揆(へいいっき)の一部が蜂起。(平一揆の乱)

3月11日、後村上天皇、摂津国・住吉の行宮で没する。41歳。
6月17日、上杉朝房、平一揆方の河越城を攻め落とす。
閏6月13日、長慶天皇、大和十津川郷十二村の郷民に軍忠状を発行。(長慶綸旨の最初)
7月、新田義宗と義治が越後・上野国境付近で挙兵する。上杉憲顕は息子の憲将・能憲・憲春を鎮圧に派遣する。千葉・宇都宮・結城・小山らがこれに従う。(『喜連川判鑑』)
   ※宇都宮氏綱は平一揆に荷担していたので誤りとされる。この際の新田討伐に関する軍忠状は存在しない。(越後守護である上杉氏だけで誅伐?)
7月、新田義宗と義治が7千騎で上野国利根郡へ進出するが、沼田庄滝棚原(うつぶしの森)で
上杉憲将以下宇都宮・小山の兵6万と会戦。新田義宗戦死。
7月、
越後国村松の辺で新田義宗討死。(『新田家先祖書』)
7月10日、
新田義宗、戦死。(『宮下氏過去帳』)
7月、
新田義治、出羽国へ逃亡。(『喜連川判鑑』)
9月6日、
上杉朝房・憲春ら、宇都宮城の宇都宮氏綱を攻める。
9月19日、
上杉憲顕、陣中で没する。
12月、信濃国大河原の宗良親王のもとに九州の懐良親王から「九州の情勢はとても悪い」という文が届けられる。(『李花集』)
12月30日、足利義満、征夷大将軍となる。




(1369年、正平24<南朝>応安2年<北朝>) 宗良親王57歳 

4月、長慶天皇、
河内国金剛寺に行宮を移す。
10月3日、上杉能憲が伊豆国守護に補任される。


 (1370年、正平25年→建徳(けんとく)元年<南朝>応安3年<北朝>) 宗良親王58歳   

正月、宗良親王は上洛しようとしたが果たせず、再び大河原へ戻る。
忍びて美濃国まで上り侍りしかども、都へも憚り多く、また後へも叶わぬことなむ侍りて、
犬山と云いし所より、鳴海の浦ちかく出で侍りしに、
山路に引かえて、海づらの住居も珍らしく覚え侍りしかば、
山ぢより 磯辺の里に 今日は来て 浦めづらしき 旅衣かな (『李花集』)
鳴海を通り侍りし折ふし、潮として、ここをば如何など人の申し侍りしかば
鳴海(なるみ)がた 潮のみちひの 度毎に 道ふみかふる 浦の旅人 (『李花集』)

3月16日、桃井直和越中国長沢で斯波義将と戦って敗死。(『花営三代記』)
7月3~6日、後光厳天皇が父・光厳帝の七回忌に宸筆の「法華八講」を催すが、諸官らが参加しなかった。
(『後愚昧記』)
7月24日、長慶天皇の即位により、「正平」から「建徳」へ改元。
9月2日、
今川貞世が九州探題となり、鎮西下向のために遠江から入京する。
10月13日、上杉・畠山ら信濃に進軍し、宗良親王の籠もる大河原城を攻める。(『新田義貞公根本史料』)
12月15日、
細川頼之土岐頼康の討伐を企てて失敗。頼康美濃へ帰る。
12月18日、大河原の宗良親王のもとへ、九州の懐良親王から二首の和歌が届く。
(『南山遺草』)


(1371年、建徳2年<南朝>
応安4年<北朝>) 宗良親王59歳 

3月21日、緒仁(おひと)親王(=後光厳天皇第2皇子)に親王宣下、立太子。
3月23日、後光厳天皇譲位。33歳。第2皇子の緒仁(おひと)親王
(=後円融天皇)践祚。12歳。
9月20日、九州の懐良親王から二首の和歌が届く。(『李花集』)
(懐良親王の和歌)
建徳二年秋の比、中務卿宗良親王もとへ申し送り侍りし
日にそへて のがれんとのみ 思ふ身に いとどうき世の ことしげきかな (『新葉和歌集』・雜下哥
しるやいかに よを秋風の 吹くからに 露もとまらぬ わか心かな (『李花集』)

(返歌)
同年十二月到来して後に便宜にかくそ申しつかはし侍りし
とにかくに 道ある君が 御代ならば ことしげくとも 誰か惑はぬ (『李花集』)

12月2日、興福寺衆徒が一乗院と大乗院の門跡の処罰を求め、春日社の神木を掲げて入洛。(『花営三代記』)
   
 春日大社を氏神とする藤原氏の面々が出仕できなくなって政務が滞り、後円融天皇の即位式に滞りが出る。
12月19日、
九州探題今川了俊、門司に到着。


 (1372年、建徳3年→文中(ぶんちゅう)元年<南朝>応安5年<北朝>) 宗良親王60歳  

1月22日、興福寺衆徒らの要求に従って、一乗院門主・実玄が伊豆に、大乗院門主・教信が土佐へ配流となるが、春日社御神木はそのまま都に放置される。
8月12日、太宰府の征西府、陥落する。




(1373年、文中2年<南朝>
応安6年<北朝>) 宗良親王61歳 

8月2日、長慶天皇が弟の煕成(ひろなり)親王
(=後亀山天皇)に譲位。(『花営三代記』) ※通説では1383年
8月、長慶天皇が行宮を吉野に移す。
8月25日、佐々木道誉、死去。77歳。



(1374年、文中3年<南朝>応安7年<北朝>) 宗良親王62歳 

1月29日、後光厳上皇急死。36歳。洛中に放置されている春日大社の御神木の祟りと噂される。
10月~12月、この間に懐良親王、征西将軍の職を良成親王(=後村上天皇の第7皇子)に譲り、肥後国・矢部に隠棲する。
冬、宗良親王が武士七十騎を従えて南都に入り、東南院から賀名生にいたる。(『大日本史』)
延元の頃、あづまへ(くだり)(はべり)し後、おほくの年月をへて、文中三年の冬、吉野の行宮へ(まゐり)(はべり)しかども、
みし世の人もなく、よろづ昔(おもひ)出らるる事のみおほく(はべり)しに、(ひとり)懐旧と(いふ)ことを
同じくは 共にみし世の 人も(がな) 恋ひしさをだに 語りあはせむ (『新葉和歌集』・雜下哥


(1375年、文中4年→
天授(てんじゅ)元年<南朝>応安8年→永和(えいわ)元年<北朝>) 宗良親王63歳 

正月、吉野にて宗良親王主催による五百番歌合わせ。
2月27日、後円融天皇即位に伴って、「応安」から「永和」に改元。
4月25日、後円融天皇と足利義満が初めて対面。
5月27日、地震災害を理由に「文中」から「天授」に改元。
6月、賀名生行宮にて五百番歌合わせあり。宗良親王判者となる。
8月26日、肥後国で水島の変。今川了俊が筑前守護・少弐冬資を暗殺したことにより、島津氏や大友氏の反発を招き、一転して窮地に陥る。南九州国人一揆のはじまり。
12月、犬居城主天野景隆、遠江守に任ぜられる。




(1376年、天授2年<南朝>永和2年<北朝>) 宗良親王64歳

3月31日、山名師義、死去。
4月1日、吉野にて内裏百番歌合わせあり。
天授二年四月、内裏にて人々題をさぐりて百番哥合し(はべり)しとき、不逢恋(あはずのこひ)の心を
身をかへて 後も頼まむ つれなさも こむ世(まで)とは さすが思はじ (『新葉和歌集』・戀哥二
4月10日、島津師久、死去。
6月、千首歌合わせあり。
6月、『宗良親王千首』。

6月18日、越後国で加治四郎、陸奥国会津郷・熊の新宮社神人の援助を受けて挙兵。北朝方の和田茂実と戦う。
6月27日、桃井直経、死去。
9月10日、仁木義長、死去。




(1377年、天授3年<南朝>永和3年<北朝>) 宗良親王65歳

2月、肥前国・千布(ちふ)蜷打(になうち)の戦い。良成親王・菊池武朝が今川了俊を壊滅させようと戦いを仕掛けるが大敗。植田宮(=早田宮(わさだのみや)源宗治王の子)・菊池武義・菊池武安ら戦死。
春、『宗良親王千首』。
8月1日、幹仁(もとひと)親王
(=後円融天皇皇子、後小松天皇)、生誕。
冬、宗良親王、3年ぶりに信州大河原城に帰る。この帰途、大和の長谷寺で二度目の出家。



(1378年、天授4年<南朝>
永和4年<北朝>) 宗良親王66歳   

5月14日、上杉能憲、死去。


(1379年、天授5年<南朝>永和5年→康暦(こうりゃく)元年<北朝>) 宗良親王67歳  

晩夏、宗良親王、『新葉和歌集/李花集』を編纂するために南河内の山田に滞在する。
秋、長慶天皇、
大和国榮山寺(※五條市)に行宮を移す。



(1380年、天授6年<南朝>康暦2年<北朝>) 宗良親王68歳   



(1381年、天授7年→弘和(こうわ)元年<南朝>康暦3年→永徳(えいとく)元年<北朝>) 宗良親王69歳

6月、菊池城、今川了俊の攻撃を受けて陥落。
10月、信州大河原城陥落して、
香坂高宗降る。四條光資逃れて吉野へ向かう。
10月3日、長慶天皇、『新葉和歌集』に対し「勅撰になぞらふべきよしの御ことのり」を出す。
12月3日、宗良親王は『新葉和歌集』を(少し手直しして)上奏する。(『続史愚抄』)




(1382年、弘和2年<南朝>
永徳2年<北朝>) 宗良親王70歳  

4月11日、後円融天皇譲位、後小松天皇即位。


(1383年、弘和3年<南朝>永徳3年<北朝>) 宗良親王71歳

3月27日、
懐良親王筑後国矢部で没す。



(1384年、弘和4年→元中(げんちゅう)元年<南朝>永徳4年→至徳(しとく)元年<北朝>) 宗良親王72歳

1月5日、尹良親王が従四位下に叙せられる。
3月24日、香坂高宗が知久祐矯の千久城に拠るが、小笠原の部将の飯田・駒場らと戦って敗れ、自害する。



(1385年、元中2年<南朝>至徳2年<北朝>) 宗良親王73歳

(-)宗良親王、大河原から諏訪へ向かう途中の山中で戦死? ※宗良親王入野谷長谷戦死説
8月10日、宗良親王、井伊谷で死去?
(『南山巡狩録』『南朝遺文』) ※宗良親王遠江死去説
10月1日、尹良親王が伊那溝口に父親王の墓碑を建てる。
(昭和6年に溝口常福寺で発見された円形石像の碑銘から) ※宗良親王信州溝口死去説



(1386年、元中3年<南朝>至徳3年<北朝>) 宗良親王74歳

11月、尹良親王甲州に入る。
(『南朝編年期略』)
11月、尹良親王上州に入る。
(『南朝編年記略』)
11月、尹良親王常陸に入り、小田の残党を率いて奥州へ向かい、浪岡城で「奥州新国司」と称する。
(『南朝編年記略』)


(1387年、元中4年<南朝>至徳4年→嘉慶(かけい)元年<北朝>) 宗良親王75歳

3月21日、宗良親王死去?(『高岡市博労町極楽寺霊名日鑑』) ※宗良親王死去地越中説
3月、尹良親王が吉野に至る。
(『南朝編年記略』)
4月28日、
前々信濃守護小笠原長基、村上頼国・高梨長芳・長沼太郎らを率いて信濃国善光寺で挙兵。
閏5月28日、
小笠原長基が善光寺平(守護所平芝)新信濃守護斯波義種と合戦。



(1388年、元中5年<南朝>嘉慶2年<北朝>) 宗良親王76歳




(1389年、元中6<南朝>嘉慶3年→康応(こうおう)元年<北朝>) 宗良親王77歳

6月1日、花山院長親が『耕雲千首』の中で宗良親王のことを「故信州大王」と記す。
3月18日、後亀山天皇が
阿蘇大宮司惟政に綸旨。良成親王属して軍忠を励ましむ。




(1390年、元中7年<南朝>康応2年→明徳(めいとく)元年<北朝>) 宗良親王78歳




(1391年、元中8年<南朝>明徳2年<北朝>) 宗良親王79歳

12月24日、山名氏清、兵を率いて八幡に陣する。(明徳の乱)
12月30日、内野合戦。山名氏清、二条大宮で戦死。



(1392年、元中9<南朝>明徳3年<北朝>) 宗良親王80歳

10月27日、「明徳の和約」。南北朝の合一なる。
11月30日、崇光上皇、出家する。


(1393年、明徳4年) 宗良親王82歳





(1394年、明徳5年→応永(おうえい)元年) 宗良親王83歳

8月1日、長慶上皇薨去?
(『大乗院日記目録』)
12月17日、足利義持、元服する。



(1395年、応永2年) 宗良親王84歳

閏7月、今川了俊が九州探題を解任され、京に召還される。