表紙徳川家康について浜松城前史宗良親王の年表参考本
浜松時代の徳川家康の詳細な年表
(※年齢は満年齢で記しています)

桶狭間以前
 (1542~1560)
三河時代
 (1561~1567)
浜松侵攻
 (1567~1570)
武田家との抗争
 (1571~)




1542年 (天文11年/家康誕生)

8月10日、第一次小豆坂合戦。
   安詳城の織田軍と生田原に陣した今川軍が岡崎城東南の小豆坂で激突。織田方の勝利。
      今川軍4万余騎、織田軍4千余騎。
(小瀬甫庵『信長記』)
   「小豆坂七本槍」…織田信光・織田信房・岡田重能・佐々政次・佐々孫介・中野一安・下方貞清
   (この戦いは実在しなかったという説が強い)

(11月?)、異母兄(弟?)、松平三郎五郎家元(または康元)誕生。
   父は広忠、母は「正光院」(岡崎城の御湯殿方女中・・・『御系図水府本』) 架空人物説在り。
12月26日
寅の刻(午前4時頃)、三河岡崎城主
松平広忠(16歳)の長男として生まれる。幼名竹千代
 母は三河刈谷城城主水野忠政の娘・於大の方(14歳)
   ・蟇目の役(魔を降伏するため蟇目を射る役)・・・石川安藝守清兼
   ・胞刀(胞衣を切る刀を捧げる役)・・・酒井雅楽政親
   ・乳母…天野清右衛門貞有の妻、清水孫左衛門の娘
同じ日、異母弟・恵最(えさい)誕生。父は広忠、母は大給松平乗正の娘・於久の方(『朝野旧聞?藁』
   樵暗(しょうあん)恵最、または樵臆(しょうおく)恵最。家康の弟ではなく叔父だとする説もある。
   家康の異母兄とされる松平勘六郎忠政と恵最は同一人物だとする説もある。
・三木城主・松平康孝(=松平清康の三弟)が没し、兄の松平信孝(=清康の次弟)が三木城を横領。


1543年 (天文12年/竹千代0歳/※家康は年末の生まれなので、この年表では数え年より-2歳の記載にします

正月、驕慢なふるまいが多くなった三木(みつぎ)城主・松平信孝が家臣団の合議により放逐される。
   信孝が正月の挨拶の使者として駿府に赴いている間に、広忠の兵が三木城を押さえ、妻子を追放した。
   松平家当主・広忠はこの叔父を愛しており、追放には反対だったと言われている。
   追放された信孝は織田家に走る
。(『定本徳川家康』)
7月12日、母方の祖父・刈谷城主・水野
右衛門太夫(下野守)忠政(満50歳)、死去。
   次男
(於大にとっては異母兄、家康にとっては叔父)水野藤四郎信元が家督を継ぐ。
(-)織田信秀、朝廷から三河守の叙任を受ける。
(-)織田信秀による安祥城攻め。本多吉左エ門討死に。
(『岡崎領主古記』)

1544年 (天文13年/竹千代満1歳

(-)刈谷の新城主・水野信元の外交政策転換(親今川→親織田へ)により、松平広忠は於大を離縁。
   以後、竹千代の養育には祖父清康の姉・於久(おひさ)(随念院)があたる。
8月21日、曾々祖父、松平長親(道閲入道、松平氏第5代、満71歳)死去。
   大樹寺に葬られ、
掉舟院殿(たくそういんでん)と追号される。

1545年 (天文14年/竹千代満2歳

(-)松平広忠、田原城主戸田宗光の娘・真喜(まき)を娶る。
(-)異母妹・市場(いちば)姫生誕?(父が広忠、母は真喜姫)
5月5日、内藤信成生誕。信成は一説に家康の異母弟。(父が広忠、母は広忠の側室・於久の方)
(-)安城畷の戦い。松平広忠対織田信秀。松平方の勝利。

1546年 (天文15年/竹千代満3歳

10月、今川軍が今橋城の戸田宣成を攻める。岡崎勢も参戦。11月15日落城。

人質時代/1547~1560年(13年間)

1547年 (天文16年/竹千代満4歳

(-)実母・於大の方が、知多郡阿久比城主・久松俊勝の後妻として再嫁。
   俊勝には既に長子・信俊と長女(名は不明-のちに一色詮勝の妻となる)がいた。
(-)異父弟・三郎太郎勝元(のちに康元と改名)、阿久比城にて誕生。父は久松俊勝、母は於大の方。
    (一説に天文21年生誕説)
正月、驕慢なふるまいが多くなった三木(みつぎ)城主・松平信孝が家臣団の合議により放逐される。
   信孝が正月の挨拶の使者として駿府に赴いている間に、広忠の兵が三木城を押さえ、妻子を追放した。
   松平家当主・広忠はこの叔父を愛しており、追放には反対だったと言われている。
   追放された信孝は織田家に走る。
(『德川實記』)
(-)織田信秀、安祥城を攻略。
   松平忠倫・松平清定らが織田方に寝返る。
   松平広忠、今川に助勢を要請し、今川義元は長子竹千代を人質に求める。
8月2日
、人質として駿府に出発したところ、途中で戸田康光に欺かれて織田信秀のもとに送られる。
9月、渡里河原の戦い。松平広忠対松平信孝。広忠の勝利。

1548年 (天文17年/竹千代満5歳

3月19日、第二次小豆坂合戦。
   今川方
(将・太原雪斎)1万、織田方(将・織田信広)4千。今川の勝利。
4月1日、松平広忠、松平重弘の山中城を攻略。
4月、菅生河原の戦い。松平広忠対松平信孝。信孝の戦死。


1549年 (天文18年/竹千代満6歳

(-)安祥松平氏の重臣・阿部大蔵定吉死去。
3月3日、織田信秀が死去し、織田信長が家督を継ぐ。(天文20年説、天文21年説もある)
3月6日、松平広忠病死。(『三河物語』『松平記』)
3月6日、父・広忠が広瀬城主・佐久間全孝の放った刺客・岩松八弥に暗殺される。(『岡崎領主古記』)
      今川義元、太原雪斎・山田新左衛門らを岡崎に派遣。
7月22日、フランシスコ・ザビエルが鹿児島へ上陸。キリスト教の伝来。
11月9日、大原雪斎率いる今川軍が安祥城を攻め、織田信秀の息子の信広を捕らえる。竹千代と信広の人質交換。
11月23日、今川軍、上野端城を攻略。
11月27日、竹千代、人質として駿府へ出発。駿府の「少将の宮の前」に屋敷が与えられる。
   鷹匠町付近に住んでいた祖母の於富の方(源応尼=当時57歳)が世話をした。
   源応尼が懇意にしていた知源院(のちの華陽院)の知短上人が竹千代に学問を与えたという伝説がある。

1550年 (天文19年/竹千代満7歳

1551年 (天文20年/竹千代満8歳

元旦、駿府館での拝賀において衆前で軒先に立ち小便し、周囲を驚かせる。
(-)、岡崎の鳥居伊賀守忠吉が息子の彦右衛門元忠(満11歳)を駿府に送って竹千代の近侍とする。
3月3日、織田信秀が死去し、織田信長が家督を継ぐ。(天文18年説、天文21年説もある)

1552年 (天文21年/竹千代満9歳

(-)異父弟・三郎太郎勝元(のちに康元と改名)、知多の阿久比城にて誕生。(『寛政重修諸家譜』)。父は久松俊勝、母は於大の方。
       (※『御九族記』では康元を天文20年生誕としている)

(-)異父弟・源三郎勝俊(のちに康俊と改名)、知多の阿久比城にて誕生。父は久松俊勝、母は於大の方。
3月3日、織田信秀が死去し、織田信長が家督を継ぐ。(天文18年説、天文20年説もある)

1553年 (天文22年/竹千代満10歳

(-)異父妹・多劫(たけ)、知多の阿久比城にて誕生。父は久松俊勝、母は於大の方。
    一説に多劫姫は於大と広忠の子。(『德川實記』)

1554年 (天文23年/竹千代満11歳

1555年 (天文24年→弘治元年/元信満12歳

3月、駿府の今川館で元服し、松平次郎三郎元信と名乗る。

1556年 (弘治2年/元信満13歳

6月24日、家康文書の最も古い物。(「三河国大仙寺への寺領寄進と禁制」、大仙寺・俊恵蔵主宛

1557年 (弘治3年/元康満14歳

(-)名を「元康」と改める。
1月15日、関口義広の娘の鶴姫(=築山御前、16歳)と結婚。

1558年 (弘治4年→永禄元年/元信満15歳

2月5日、初陣。鈴木重辰の寺部城を落とし、広瀬・挙母・梅坪城を攻める。
松平元康と改名。

1559年 (永禄2年/元康満16歳

3月6日、長男・竹千代(=のちの松平信康)誕生。

1560年 (永禄3年/元康満17歳、数え19歳

1月、異父弟・定勝、知多の阿久比城にて誕生。
5月6日、祖母・源応尼、駿府にて死去。駿府鷹匠の智源院に葬られ、華陽院と諡される。
   すでに出陣していた元康は祖母の葬儀に参列できなかった。
5月12日、今川義元、2万5千の大軍で上洛の途につく。元康先鋒を命ぜられる。
5月18日、義元沓掛に到着。元康大高城に兵糧運び入れを果たす。
5月19日、丸根砦を攻撃。鵜殿長照に代わり大高城に入る。織田信長、田楽狭間を急襲し今川義元戦死。
5月23日、元康岡崎城に入る。今川家からの独立を宣言。



三河平定戦/1561~1567年(6年間)

1561年 (永禄4年/元康満18歳

2月頃、水野信元の斡旋で織田信長と和睦。
4月、宝飯郡牛久保で合戦。
5月、八名郡宇利、設楽郡富永口で合戦。
7月・8月、八名郡嵩山で合戦。
10月、設楽郡島田で合戦。


1562年 (永禄5年/元康満19歳

1月15日、清洲城へ赴き織田信長と同盟を結ぶ(清洲同盟)。
1月20日、将軍義輝が今川・徳川の抗争の停止の御内書発行。
     (今川氏真・北条氏康・武田信玄宛てのものが残っている)
2月4日、鵜殿長照が守る三河西郡城を攻め落とし、長照の2子と駿府にいる人質の築山殿・亀姫を交換。


1563年 (永禄6年/家康満20歳

3月、織田の徳姫と徳川の竹千代との婚姻の約束成る。
5月、宝飯郡御油口で合戦。
7月6日、名を家康と改名。
9月、三河の一向一揆勃発。重要な家臣が大勢敵対する。


1564年 (永禄7年/家康満21歳

2月28日、一向一揆を平定。
6月20日、小原鎮実の守る吉田城を攻略。三河統一。


1565年 (永禄8年/家康満22歳

織田信長が養女を武田勝頼に嫁がせる。甲尾同盟締結。
12月20日、今川氏真が駿府城にて飯尾連龍(一説に父の乗連)を殺害。



1566年 (永禄9年/家康満23歳

2月10日前後、引間城を守る江間安芸守、江間加賀守、松下加兵衛らに調略を重ねる。
4月21日、今川氏真、江間安芸守、江間加賀守、三浦与次らに飯尾豊前守の遺領の一部を与える。
12月29日、朝廷の勅許を得て徳川の姓を名乗る。


1567年 (永禄10年/家康満24歳

5月27日、嫡男竹千代(満8歳)と織田家の徳姫(満8歳)との結婚。
6月、長男竹千代を岡崎の城代とし、自分は遠江へ移ることを決める。
7月、長男竹千代元服。織田信長と父家康から偏諱をうけ、徳川三郎信康と名乗る。


浜松時代(本能寺の変まで)/1568~1582(14年間)

1567年 (永禄10年/家康満24歳、数え26歳

8月、武田信玄が甲相駿三国同盟の破棄を決意(家臣236名に血判状署名要請)。
8月15日、稲葉山城落城し、斎藤龍興伊勢長島へ逃れる。織田信長の美濃制圧完了。
8月17日、今川氏真が甲斐への「塩止め」を開始する(「葛山氏元印判状」)。
10月19日、武田信玄の長男・太郎義信自害。11月、その夫人が駿河へ返される(駿甲相三国同盟の崩壊)。



1568年 (永禄11年/家康満25歳、数え27歳
遠州侵略開始!

2月、武田家と徳川家の密交渉開始。交渉担当は酒井左衛門尉忠次(41歳)穴山左衛門大夫信君(のぶただ)(27歳)
2月10日、松平家忠に宇津山城に入るようにとの書状。(通説では宇津山落城は永禄11年12月中旬)
2月16日、「大井川を境に、駿河は信玄が、遠江は家康が取る」という約束がなされた(『浜松御在城記』)。
2月~12月、信玄の調略で今川家臣21人が武田方に寝返る(『松平記』)。
12月6日、武田信玄甲府を出立。
12月12日、武田信玄、芝川町の内房に着陣。駿河侵攻開始。今川方は庵原安房守を将として1万5千が薩埵峠に出陣。
      今川氏真の本陣は清見寺。ところが瀬名・朝比奈・三浦・葛山がすでに武田に通じたと知って、戦わずに駿府に退却。

12月12日、徳川家康が「井伊谷三人衆」を先導に本坂峠を越える。遠州侵攻開始
          ※『豊橋市史』では宇利峠から、『浜松市史』と小楠和正氏は陣座峠から、としている。
     ・菅沼次郎右衛門忠久、近藤石見守康用、鈴木三郎大夫 重時の三人に本領安堵と加増の誓書。
     ・三ヶ日の土豪・浜名肥前守頼広は抵抗。
      白須賀城・堀江城は降伏、堀川城・刑部城には土豪・農民が抵抗して立て篭もるが、瞬く間に落城。
      西遠江で徹底的に抵抗する構えを見せたのは佐久城の浜名氏のみ。
      家康、佐久城の対岸に野地城を作ることを命じる。
12月半ば、酒井忠次が宇津山城を攻め、守将・小原肥前守は船で脱出。
    一説に小原鎮実は爆薬で酒井軍を爆散させる計略を試みたが、失敗したという。(『改正三河後風土記』)
12月12日、北条氏政、今川を助けるために小田原出陣。
12月13日、武田駿府に乱入。寺社を焼く。今川氏真、掛川城に逃れる。
    北条方、薩埵峠を押さえ背後から武田軍に圧力を与える。

12月18日、引間城で江間安芸守(=親武田派)が江間加賀守(=親徳川派)を殺害。怒った加賀守の家臣の小野田彦左衛門が安芸守を斬り殺す。
12月18日、引間勢、徳川に城を明け渡し、家康引間城に入る。
12月18日、北遠を南下していた武田軍の秋山信友が見付で奥平・菅沼の勢に遭遇し、撃破。
12月、匂坂城の匂坂吉政、久野城の久野宗能、犬居城の天野藤秀、高天神城の小笠原長忠、馬伏塚城の小笠原氏興、家康に下る。
12月19日、久野城主・久野宗能(むねよし)に命じて天龍川に船橋を架けさせる。
12月20日、掛川まで進軍。
12月21日、入山瀬に本陣を置き(左右の両備えは本多忠勝と榊原康政)、6将に掛川城攻撃を命ず。
12月22日、掛川城攻撃開始。
     攻将=酒井忠次・石川数正・松平真乗・鳥居元忠・大久保忠世・石川家成、兵8000。
     守将=朝比奈備中守泰朝、今川氏真、勇士3000人(『武徳編年集成』)
     わざと攻めず引きつけて、今川方が掛川城門を出てきたところを計って左右から攻めたが、掛川勢もすぐ引いた。
12月26日、附城の金丸山砦(久野宗能)、青田山砦(松平家忠)、笠町砦(山家三人衆)完成。(『松平記』では1月16日)
12月27日、本陣を天王山に移す。徳川の総攻撃開始。
  掛川城は持ちこたえ、「掛川城の霊霧伝説」生まれる。
  小笠原氏助に命じ掛川城下に放火。
 ・天龍川上流部の奥山氏に内紛が起こり、高根城・若子城が武田氏に下る。
12月28日、家康、見付に帰る。(『浜松御在城記』)
馬場信春が駿河田中城を補強。約束の違反に家康激怒。


1569年 (永禄12年/家康満26歳、数え29歳
遠江征服完了。
1月8日、駿府の信玄から掛川の家康へ武田軍遠江侵入に対する詫び状。
        秋山信友と下伊那衆を駿府に退かせることを約束。
1月16日、第2回掛川城攻め開始。
1月17日、掛川城を攻めるために天王山を本陣とする。
1月20日、天王寺の戦い。安藤九右衛門が活躍。
1月21日、天王小路の戦い。西郷監物丞が活躍。
1月22日、久野城で内紛。久野宗能が今川に通じようとした弟の宗益を殺害し叔父を追放。
1月23日、天王山の戦い。今川方に多数の死者。徳川も苦戦?
1月26日~4月24日、薩埵峠の戦い。
本陣を三島から薩埵山に移した北条氏政を信玄が攻める。

1月28日、合戦あり。徳川方優勢。
2月16日前後、武田信玄と徳川家康が起請文を取り交わす。
2月、本多忠勝・伊奈忠次が浜名湖北岸の佐久城を攻め、浜名氏は甲斐へ逃亡。
3月27日、堀川城の戦い。見せしめのために700人の首を刎ねる。
4月24日、武田軍は薩埵山を落とせず、駿府に退く。
5月16日、今川氏真、掛川城を明け渡す。家康と氏真の間に「徳川が駿河を獲ったら駿河は氏真に返す」という密約ができたといわれる。
氏真は海路伊豆戸倉城へ逃れ、北条領へ亡命。
掛川城には石川家成が入り、周辺諸豪族に安堵状。
5月、天方城、飯田城を攻略。
秋、磐田の見付に本拠地となる城の建築開始。まもなく水利が悪いことを理由に中断。
続いて城ヶ崎に城を作り始めるが、織田信長に「天龍川を背にするのは良くない」と言われて断念。
8月7日、叶坊光播に犬居の秋葉寺別当職を安堵。ただし犬居を支配する天野宮内右衛門尉の了解の上という条件付きにて。



1570年  (永禄13年/元亀元年/家康満27歳、数え29歳
姉川の戦い!
曳馬城に本拠を移す。家忠日記では1月、当代記では6月。
「曳馬」は「馬を引く」に通じ縁起が悪いということで、付近の「浜松庄」の名を取って浜松城と改称。浜松城の大規模な工事開始。
岡崎城主には長男・信康(12歳)。
1月4日、武田信玄が駿州花沢城を攻める。
1月8日、花沢落城。小原鎮実は小笠原氏助を頼って高天神城に逃げるが、小笠原は鎮実とその息子・三浦義鎮の首を刎ねて家康に献じた。
4月、織田信長の要請で初上洛。
4月14日、松平真乗が武田方であった吉田町の山崎砦を攻撃し、攻め落とす。真乗、家康から城主に任じられる 。(『静岡県吉田町史』)
4月20日、信長と家康、越前朝倉氏討伐に向かう。家康軍は5000、信長軍は2万4000。
4月25日、越前天筒城を攻める。
4月30日浅井・六角氏挙兵。信長と家康、京に戻る。
6月28日、姉川の戦い。信長と共に浅井・朝倉氏を破る。徳川軍大活躍。
10月8日、上杉輝虎と同盟。信玄と破盟。


1571年  (元亀2年/家康満28歳、数え30歳
武田信玄との戦いが開始された年。
 1月5日、家康、朝廷から従五位上に任じられる。1月11日、侍従。
 2月16日、武田信玄甲府を出発。富士の大宮に向かう。 (信玄一度目の遠江侵攻)
 2月24日 、信玄2万の兵で大井川を超え、遠江に乱入。一瞬にして 山崎砦陥落。 馬場美濃守信房に命じて山崎砦を拡張し、 小山城 を築かせる。
     小山城主には越後からの浪人・大熊備前守長秀が任じられた。
 3月5日 、信玄、塩買坂に着陣。 内藤修理亮昌豊 高天神城 攻撃。城主の 小笠原与八郎長忠 、兵2千でなんとか持ちこたえる。
     内藤修理は高天神城に包囲網を構築し、小笠原軍が出撃できないようにした。信玄、内藤を褒賛。
 武田軍はその後北上、信州飯田に向かう。
 3月26日 、信玄、伊那の 高遠城 から伊奈口を経て北三河に侵入。兵2万3千。
 4月15日、武田の先鋒軍が 足助城 (豊田市) を攻める。足助城主・鱸氏が信玄に降る。
     伊河・須利・八桑・大沼・田代は自ら開城。
 武田軍、東三河に兵を進める。野田城菅沼新八郎 定盈、山家三方衆の兵を見て退く。 
     家康、2千の兵を持って吉田城に入る。
 武田軍、二連木城(豊橋市)に攻め寄せる。二連木勢、吉田城に退く。
     酒井左衛門尉忠次と山県軍、交戦。忠次・戸田 左門一西・大津土左衛門時隆ら奮戦。対するは広瀬郷右衛門景房・ 三枝傳右衛門・孕石源右衛門 泰時。
     家康、吉田城に籠城。
 武田軍、長沢・牛久保・一宮付近を攻める。
 5月中旬、武田信玄甲斐へ帰還。
 『柏崎物語』によると、夏から秋にかけて武田軍が何度も三遠国境を侵掠する。
 織田信長、「拠点を浜松城から吉田城へ移すように」と助言。家康拒否、「(信長には「時期を見て」と言ったが)、 浜松から退くぐらいなら、弓矢を折って武士をやめる」。
 10月3日、小田原城の北条氏康死去。 息子に「上杉と手を切って武田と結ぶように」という遺言を遺す。
     北条氏政、越相同盟を破棄し、甲相同盟を復活。
     (『甲陽軍鑑』では北條方から、『関八州古戦録』では武田の側から同盟を持ちかけたことになっている)。


1572年  (元亀3年/家康満29歳、数え31歳
三方原の戦い!

 浜松城の修築、いまだ完了せず。
    「近世浜松城の三の丸部分は、元亀3年段階にはまだなかったであろう」(小和田哲男『三方ヶ原の戦い』)
 1月、信玄、利根川を挟んで上杉謙信と対陣。
 閏正月、家康が大井川に兵を出して巡検すると、信玄から「約束では国境は天龍川だったはずだろ!」と抗議がある。 (『浜松御在城記』)
      (※『德川實記』では「閏3月」

 7月、将軍・足利義昭の暗躍により武田と上杉に講和成立。第二次「反織田包囲網」が結成。
 7月、武田軍飛騨に侵攻。8月、武田軍、飛騨高原諏訪城を攻撃。城主・江馬輝盛逃亡。

 夏から秋にかけて原隼人昌胤と内藤修理亮昌豊の指揮で、遠州・三州牢人が山野の険峻地・河川の渡河点・深田等の精密な調査をおこなう (『甲陽軍鑑』)
 9月22日、家康、小国神社で対武田戦の勝利を祈願。
 9月26日、山縣三郎兵衛昌景、兵5千を率いて奥三河へ侵攻。
 10月3日、武田信玄ほぼ全軍をもって甲府を出発。 (信玄二度目の遠江侵攻)
     (『德川實記』では先手・山県軍5千余騎、信玄本隊3万5千)
 10月10日、青崩峠と兵越峠を越えて遠江へ入る。
     ※最新の説では、「信玄は駿河から入った」という説も唱えられている。(鴨川達夫・柴裕之)
 犬居城の天野宮内右衛門景貫、青崩峠で信玄を迎える。 (『浜松御在城記』では天野宮内右衛門藤秀)。
 北遠の只来城・天方城・飯田城陥落。東遠では各和城が陥落し、久野城は篭城。 懸川城高天神城が完全に孤立した。
 武田軍、木原・西嶋付近に布陣。
 10月14日ごろ? 徳川軍磐田原台地に出陣。家康本人が出馬したかどうかは諸説ある。
 内藤三佐衛門信成、大斥候(『四戦紀聞』)に出て武田軍と遭遇、撤退戦をおこなう (三箇野川の戦いあるいは木原畷の戦い) 。    
     徳川軍の総数、『松平記』では3千、『甲陽軍鑑』『改正三河後風土記』では4千、『四戦紀聞』では1200余。本多 平八郎・大久保七郎右衛門の援軍含む。
 家康軍、見付の町に火をつけて退却。(「見付町田畑定納由緒書上控」では見付の町衆 本多忠勝の逃走を助ける為に 自ら火をつけたことになっている)
 追撃する武田軍が磐田原台地西端で徳川軍に追いつく。(一言坂の戦い)
     『豊田町誌』では一言坂の戦いを10月14日 としている。つまり木原畷の戦いと見付の戦いと一言坂の戦いは同日の可能性が高い。
     本多平八郎忠勝が大奮迅。武田の部将・小杉右近助が「家康に過ぎたるものふたつあり」の罵詈雑言を書いたものを 見付の坂に立てた (『甲陽軍鑑』)
     家康は馬篭で本多忠勝の撤退を待っていた(『浜松御在城記』)
 10月15日? 磐田原台地西の匂坂城が落とされ、穴山梅雪入る。
 武田軍、天龍川東岸を北上。合代島に布陣。10月下旬に二俣城を攻め始める。
        二俣城の守将・中根平左衛門正照と浜松からの加勢・青木又四郎 貞治・松平善兵衛正親。兵数は不明。
        攻め手は武田四郎勝頼・武田典厩信豊・穴山梅雪の3人。
     山家三方衆を率いて引佐方面を攻めていた別働隊の山縣軍が、伊平城に留守部隊を置いて信玄本隊に合流。
     馬場美濃守信房と北條氏政衆計4千余を濱松城のおさえに置く(『甲陽軍鑑』) 。(…どこに?)
     家康、二俣城の後詰めに出るが、手を出すことが出来ずに引き上げる。
        このとき、天龍川を越えて退却するところを馬場に見られてしまい、渡河地点を知られてしまう。馬場は「家康は若武者ゆえ」と評した (『甲陽軍鑑』)
 10月20日、伊那にいた秋山 伯耆守虎繁、春近衆・高遠衆を率いて東美濃に攻め込む。
 11月14日、秋山伯耆守 虎繁、美濃岩村城を攻めて陥落させる (『武家事紀』)。
 11月20日、織田信長、武田信玄と断交。
    信長が佐久間信盛・平手汎秀・水野信元と兵3千を浜松に送ったのはこのあとか?
 11月27日、山県昌景が「二俣城の数々の水の手を5~3日前に全部取った。3日以内に城は落ちるだろう」という書状を奥平貞能に送っている。
 12月19日、信玄からの二度目の降伏勧告を容れて、中根正照、二俣城から退去。 二俣城落城。依田信守・信蕃父子が二俣城を任される。
    『武徳編年集成』『浜松御在城記』に「家康が笠掛山まで後詰めに来ていることを知らずに二俣開城」と記されているが、
     小楠和正氏は「家康に2度も出陣できる余裕があったはずがない」と、家康の後詰めの可能性を2度とも否定している。
 12月22日、 武田軍、天龍川の渡河を開始。(渡河地点として、野辺・神増の二説がある。どちらも合代島の付近)
     「二股の城攻め落し、その競ひに、武田信玄堀江の城へ打ち廻り、相働候」(『信長公記』)
     武田軍、そのまま秋葉街道を南下。
     昼頃に浜松城の手前5kmに至った武田軍は大菩薩山付近の欠下平から三方原に上がり、小休止。
         (『当代記』では「都田」から三方原へ登ったとする)
     旧姫街道を西に進んだ武田軍は、追分の付近から進路を変えて北上。
     「武田軍が祝田の坂に向かっている」という報を受けた家康は追撃を指示。(敵軍が坂を下りきったところを上から襲おうとした)
     しかし、徳川軍の先鋒が根洗まで来ると、武田軍は反転して魚鱗の陣で徳川軍を待ち構えていた。
     『甲陽軍鑑』『浜松御在城記』『松平記』『四戦紀聞』では申の刻、『本多家武功記』では酉の刻、戦闘開始。
          ※小和田哲男『三方ヶ原の戦い』…「いくつかの史料に戦いの始まったときは“薄暮”であったとある 。(中略)
             戦いは午後5時頃から始まり、薄暮からやがてまっくらやみでの戦いとなった。三方ヶ原の戦いは、意外なことに夜戦であったのである」
          ※小楠和正『浜松城時代の徳川家康の研究』…「三方ヶ原合戦当時は不定時法によるのである。室町時代後半“申の刻”は現在の午後4時と
             決まっていたわけではない。幅のある時間帯をいう。元亀3年12月22日は新暦では2月4日で、冬至の日よりも日が長くなったなと実感する
             節分・立春の頃である。(中略)まだ日の高い頃から始まり、午後5時20分の日没の時には合戦そのものは終わっていたのではないか。
             日が落ちてからの戦いは、浜松城へ逃げる徳川軍を追いかける武田軍の、追撃戦だったのである」
     武田軍は2万5000、徳川軍8000・織田援軍3000。
     命からがら曳馬古城に逃げ込み、城門に火をこうこうと焚く。
      犀ヶ崖の戦い。ボロ負けしたのに家康は「勝った」という書状を各方面に送りまくる。(上杉 謙信は家康の報告を信じる)。
     一方で家康は教訓の為に「しかみ像」の肖像画を描かせた。
  12月23日、信玄、浜名湖岸の刑部城を落とし、翌正月3日までそこにとどまる。実はここで信玄は体調をかなり悪くしていた。


1573年  (天正元年/家康満30歳、数え32歳

 2月11日、武田軍、奥三河の野田城を攻め落城。しかしその後突然武田軍は信州へ進路を変え、家康は「おかしいぞ?」と思う。
 4月12日、武田信玄信州駒場で没する。享年53。遺言「信玄の死は秘し、3年間は攻勢に出ることなく国力の充実に努めよ」
 5月9日、家康みずから大井川を越え、駿府まで進撃。駿府の町に火を放って引き上げる。
 ・武田家臣の奥平貞能・信昌親子が家康に下り、信玄の死を伝える。上杉謙信からも速報。
 7月、家康、信玄の死を確信。
 7月20日、長篠城の包囲開始。
 8月、武田軍の遠江侵入。大須賀康高が撃退。
 9月10日、武田方の室賀信俊が逃げ出し、長篠城を攻略。
 11月、武田の家督を継いだ勝頼(28歳)、兵1万5000で大井川を越え牧ノ原台地に諏訪原城を築く。掛川を攻めようとするが、堅城ぶりを見てあきらめる。放火。

1574年 (天正2年/家康満31歳、数え33歳

2月8日、浜松で次男・於義丸(=結城秀康)誕生。
2~4月、勝頼、美濃に出兵。明智城・足助城攻略。3月、家康、勝頼の撤兵を待って駿河に出撃。4月、北遠に出撃、天方城は奪回するが、犬居城を攻撃する も大雨で失敗、天野景貫に手痛い反撃を受ける。5月、武田勝頼、兵2万5000で甲府を出発。5月12日、高天神城を囲む。家康、信長に援軍を要請する が、援軍間に合わず。6月17日、小笠原長忠降伏し、高天神城落城。大勝利なのに関わらず、勝頼の長征に対して重臣・高坂昌信、内藤昌豊らから不満が述べ られる。8月、高天神城に対するために大須賀康高に馬伏塚城を修復させる。9月、武田軍、遠江から三河を横断し、荒らし回る。

1575年 (天正3年/家康満32歳、数え34歳

  長篠の戦い!


2月15日、鷹狩りの途中に井伊直政(15歳)を発見、家臣とする。
4月、武田軍、三河の牛久保城と二連木城を攻撃し、吉田城を包囲する。大賀弥太郎が岡崎城へ武田軍を引き入れようとした事件発覚。
5月1日、勝頼が長篠城を包囲する。信長に援軍要請をし、信長はそれに応える。自ら3万を率いて長篠に出兵。5月21日、長篠の戦い。織田・徳川連合軍武 田勢を撃破する。馬場信春・山県昌景・内藤昌豊戦死。
5月末、家康、二俣城攻略開始。二俣城の周囲に鳥羽山・毘沙門堂・蜷原・和田島の付城を作る。二俣の守将は依田信蕃。
6月2日、家康駿河に出撃。諏訪原城攻撃、失敗。7月、部将・松平康親と稲垣長茂、東遠州の武田軍の拠点・諏訪原城を落とす。小山城包囲。それに対し勝頼 は2万の兵を派遣。(少年兵が多かったと言われる)
12月24日、依田信蕃、勝頼の命により二俣城を明け渡す。(長篠の痛手により救援を送れなかったため)           
12月27日、織田信長の命により、伯父の水野信元を岡崎城に誘って殺害する。

1576年 (天正4年/家康満33歳、数え35歳

7月、家康、犬居城を攻撃。天野景貫甲斐へ逃亡。
今川氏真を招き、牧野原城と改名した旧・諏訪原城へ入れる。高天神城の周囲に「6砦」を作らせ始める。勝頼、高天神城救援の為に、牧ノ原周辺に城をいくつかつくって兵を入れる。
8月、信康と共に横須賀で武田勝頼を撃破。しかし武田の山県隊が高天神に食糧運搬を成功。
8月、家康、駿河侵攻。しかし勝頼を畏れてすぐに撤退。

1577年 (天正5年/家康満34歳、数え36歳

8月25日、勝頼、兵2万で横須賀に出陣。家康は信康と共に出陣してこれを撃破。この戦いを機に家康は勝頼を恐れることをやめる。
10月、勝頼は小山城に迫るが、戦わず撤退。

1578年 (天正6年/家康満35歳、数え37歳

3月、上杉謙信死去。
家康、本格的に駿河侵攻開始。越後での「御館の乱」に巻き込まれた勝頼は駿河に出兵できず。

1579年 (天正7年/家康満36歳、数え38歳

  信長公の圧力! 築山殿と信康の処断。


3月、越後の御館の乱終結。
4月7日、第3子秀忠、浜松で誕生。
4月25日、勝頼が高天神に出兵。家康、馬伏塚。勝頼戦わずして撤退。家康田中城まで追撃。
5月16日、安土城で織田信長が酒井忠次に信康の行状について尋ねるが、忠次は弁護しなかった。
6月、信康と妻・五徳姫の不仲目立つ。信康が暴虐になった という噂。家康が岡崎を訪ね、諭す。
7月16日、信長に信康と築山殿の処罰を命ぜられる。
8月、武田勝頼、駿河国沼津に三枚橋城築城。
8月3日、家康、岡崎城へ行く。家康と信康の口論。
8月4日、信康が家康に弁明。信康の身柄が三河大浜城に移される。
8月9日、信康、浜名湖畔堀江城へ護送される。
8月12日、家康浜松に帰る。
8月29日、築山殿を遠州富塚で殺害。
9月、北条氏、駿河国沼津に泉頭城築城。
9月5日、家康、北条氏政と同盟。17日、駿河に進撃し、持舟城落城。
9月15日、信康、二俣城で切腹。、21歳。

1580年 (天正8年/家康満37歳、数え39歳

  高天神攻め大詰め。


3月、高天神城を包囲するため、大坂砦・相坂砦・中村砦を築城。
6月、獅子ヶ鼻砦を築城。
7月、小山城・田中城を攻める。
9月、高天神城、完全に孤立化。勝頼、高天神城の後詰をしないことを決定し、武田家中に衝撃が走る。
10月22日、横須賀城から出撃して高天神城を攻める。
年末、信長から4名の御使衆派遣。「陣場見舞」と称して検分。(完全な織田の家臣化)

1581年 (天正9年/家康満38歳、数え40歳

正月、織田からの援軍として尾張の大野・小川・刈谷衆の出陣。
3月21日、高天神城落城。

1582年 (天正10年/家康満39歳、数え41歳

2月18日、甲州征伐始まる。
2月20日、田中城の依田信蕃城を明け渡す。
3月11日、勝頼天目山で自刃。
3月29日、信長、家康に駿河国を与える。5月15日、家康、安土を訪れて信長に礼を述べる。
6月2日、本能寺の変。伊賀越え、急ぎ京より三河を目指す。


表紙