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宗良親王の詳細な年表/建武中興十五社 >

後醍醐天皇の皇子たち



<後醍醐天皇の皇子・皇女たち>
尊良親王(たかよししんのう) (たかながしんのう)  
生年不詳~延元2年(1337年)3月6日/29歳前後)
一の宮、一品中務卿(いっぽんなかつかさのきょうの)親王。

母は二条為子。
護良親王(もりよししんのう) (もりながしんのう)  
(延慶元年(1308年)12月8日~建武2年(1335年)7月23日)
三の宮。大塔宮(おおとうのみや)尊雲法親王。

母は民部卿三位(みんぶきょうのさんみ)

聖護院宮(しょうごいんのみや) 尊珍(そんちん)    
(生没年不詳)

亀山院宮。 聖護院宮(しょうごいんのみや) 恵尊(えそん)法親王

母は民部卿三位(みんぶきょうのさんみ)だとされ、護良親王とは同母兄弟の可能性が高いが、父は後醍醐ではなく、亀山院であるともされる。(のちに後醍醐の猶子となる?)
父を後醍醐とする場合は徳治2年(1307年)生まれ(『寺門伝記補録』による)、亀山とする場合は徳治元年(1306年)生まれ(『道平公記』による)。

北畠親房に養育された。

宗良親王(むねよししんのう) (むねながしんのう)  
(生没年不詳)
二の宮、四の宮、八の宮。尊澄法親王(そんちょうほっしんのう) 妙法院宮(みょうほういんのみや)
井伊宮、信濃宮、大草宮、越中宮。信州大王。


母は二条為子。
後醍醐天皇の皇子たちの中で一番長生きした。
世良親王(よよししんのう) (ときながしんのう)
生年不詳~元徳2年(1330年)10月29日/23歳前後)
二の宮、(そち)の御子、太宰帥(だざいのそち)親王

「一の御子よりも御才などもいとかしこく、よろづやうざくに物し給へれば」(『増鏡』むら時雨)
昭慶門院(=亀山院皇女・憙子(きし)内親王 )に愛育され、彼女から膨大な所領を継承する。昭慶門院の力で元服も尊良親王よりも早かった。
しかしはやり病に罹って急死。
そのショックで養君・北畠親房は出家した。
墓所は嵐山の臨川寺(京都市右京区嵯峨)

恒良親王(つねよししんのう/つねながしんのう)
(正中2年(1325年)?~興国7年(1346年)?)
第九の宮。
母は新待賢門院(阿野廉子)

「建武の新政」が始まったとき、後醍醐天皇によって「皇太子」に定められる。
建武3年に尊良親王・新田義貞らと越前国に下向。
後醍醐天皇から皇位を譲られる。(が、のちにこれは無効とされる)
静尊法親王(じょうそんほっしんのう)
(生没年不詳)
四の宮、聖護院宮(しょうごいんのみや)

『太平記』に「(護良親王と)同じ御腹」と書かれているせいで、聖護院宮尊珍と同一人物とされることが多い。(森茂暁氏は別人だとされておられる)
成良親王 (なりよししんのう/なりながしんのう)  
嘉暦元年(1326年)康永3年(1344年)1月6日)

上野太守(こうづけのたいしゅ)。将軍宮。

母は新待賢門院(阿野廉子)
建武の新政が始まると、「鎌倉府将軍」として足利尊氏とともに関東に下るが、
中先代の乱が起こって帰京。
短期間「征夷大将軍」ともなり、建武3年には光明天皇の皇太子にもなった。
太平記には足利氏によって毒殺されたと書かれている。

義良親王 (のりよししんのう/のりながしんのう)
嘉暦3年(1328年)10月4日?11日?~正平23年(1368年)3月11日)
陸奥宮(むつのみや)。後村上天皇。

母は新待賢門院(阿野廉子)
奠真(てんしん)
(生没年不詳)

『本朝皇胤紹運録』(=後小松天皇の命によって編纂された)にしか名前の出てこないナゾの人物。
聖助法親王 法仁法親王
玄円法親王(げんえんほっしんのう) 満良親王(みつよししんのう) (みつながしんのう)
(生没年不詳)
土佐宮。花園宮(はなぞののみや)
。常陸親王。
恒性(こうせい)
懐良親王 知良王 無文元選(むもんげんせん)
(生没年不詳)

『本朝皇胤紹運録』にも名前の出てこないナゾの人物。
満良親王と同一人物とされることがある。

遠州を中心に170ヶ寺を抱える「臨済宗方広寺派」の祖。
     
     
     
     
     

<後醍醐の后妃たち>
贈従三位為子(ぞうじゅさんみ い し )    
二条為子(にじょういし) (にじょうためこ) 
(生年不詳~正和3年(1314年)8月12日)

二条派歌壇の重鎮・二条為世の息女。
尊良親王・瓊子内親王・宗良親王の母。

遊義門院一条局(ゆうぎもんいん いちじょうのつぼね)
         

世良親王の母。
民部卿三位(みんぶきょうのさんみ)     

諱は親子、資子、惟子と諸説ある。(彼女の正体について研究に決着がついていないため)
村上源氏である民部卿三位大納言北畠師親の娘(という説が主流)。
北畠親房は兄である北畠師重の子であるが、のちに師親が親房を養子としたため、親房と三位局は姉弟となる。
なお、北畠師親が従二位になったのは文永7年(1270年)なので、この女性の名が世に現れたのはそれ以前だと思われる。※後醍醐天皇の生誕は1288年。(※北畠師親が民部卿になったという記録も実は無い)

尊珍の母?
護良親王の母。
後京極院 (ごきょうごくいん)/新京極院
西園寺禧子 (さいおんじきし)

懽子内親王の母。
従三位藤子(じゅさんみとうし)
二条藤子(にじょうとうし/ふじこ)

懐良親王と法仁法親王の母。



<孫の世代>
守永親王(もりながしんのう)
(生没年不詳)
陸奥宮、宇津峯宮。

尊良親王の皇子 
居良(いよし)(親王)
(生没年不詳)

尊良親王の第一皇子。
守永親王と同一人物?
興良親王(おきよししんのう) 
興良親王(おきよししんのう)    
     
     
     
     
     
     
     
     



<後醍醐系ではない同時代の親王たち>
熙仁親王(ひろひとしんのう)
(文永2年(1265年)4月23日~文保元年(1317年)9月3日)
 

後深草天皇の第2皇子。持明院統。
弘安10年(1287年)10月21日に即位。伏見天皇