< 表紙 >< 泰澄の史蹟 >
< エジプト南北朝史 / インド南北朝史 / 南アメリカ南北朝史 / 朝鮮半島南北朝史 / メソポタミア南北朝史 >

南北朝人名録


<八王の乱>
趙王 倫

斉王 冏(けい)
成都王 穎(えい)
長沙王 乂(がい)
河間王 顒(ぎょう)
慕容(ぼよう)吐谷渾(とよくこん) (245年~317年)
劉淵(りゅうえん) 字;元海 (251年?~310年)
南匈奴の左賢王。八王の乱に乗じて304年に西晋から独立して漢(のちの前趙を建国。
劉聡
石冰(せきひょう)
李特
李雄
笵長生
李寿
周玘(しゅうき)
顧秘
葛洪
陳敏
顧栄
周馥(しゅうふく)

王衍(おうえん) (256年~311年)
西晋の最後の宰相。

<東晋の成立>
司馬睿(しばえい)
荀藩
華軼(かいつ)
王敦(おうとん)
王導

周勰(しゅうきょう) 字;彦和
周玘(しゅうき)の息子。
313年に死去した父が晩年に抱いていた北方から流れてきた貴族への恨みを受け継ぎ、314年に挙兵。呉興郡の徐馨などの江南の「
豪侠(ごうきょう)」たちがこれに呼応し、これに合わせて呉の皇族の流れである孫弼も広徳で立った。
王導から100人の精鋭を与えられた従兄の
周筵(しゅうえん)により殲滅させられた。(『続三国志演義』には「懦弱で決断を欠く大事を起こせない性格で、徐馨と徐馥に嗾された」と書かれている。)
乱の終結後、司馬睿は周一族をなだめるため、周勰を処刑しなかった。
陶侃(とうかん) (259年~335年)
祖逖(そてき) 字;士稚 (266~321)
流民たちの統率者。
もともと河北省北部の豪族だったが、311年に劉曜・石勒らによって洛陽が陥落すると親党数百家を率いて南下。その声名を聞いてまたたくまに膨れ上がった流民たちを率いて京口まで至ったところで王導に迎え入れられた。
祖逖は荒くれ者を選抜して北上、華北を制覇した石勒の後趙国の南下を防ぐために戦い、たびたび石勒を破った。河南省東南部まで進出した祖逖は、
淮水(わいすい)流域の各所に防塁を作って自分の属下の難民を大量に入れ、この一帯に威令を及ぼして東晋の北辺の防備を堅くした。320年に鎮西将軍、ついで征西将軍・都督六州諸軍事に任ぜられたが、突如軍事権を取り上げられ、悲嘆のうちに病死した。
祖約 (266年~330年)

周顗(しゅうぎ) 字;伯仁 (269~322)
西晋の名族の出で、才子として知られる。司馬睿に招かれて仕えた。
声名はあったが実行は伴わず、戦争はからっきしダメで酒にも弱く、人にも見くびられることも多いが性格は素晴らしく、多くの人に慕われていたエビソードが多く伝わる。(とくに『世説新語』)。
郗鑿(ちかん) (269年~339年)
拓跋(たくばつ)猗盧(いろ) (?~316年)
鮮卑(せんぴ)族の拓跋部の勃興の祖となった拓跋力微(たくばつりょくび)の孫。
295年に鮮卑拓跋部の
大人(たいじん)(=部族長)であった拓跋禄官(たくばつろくかん)が拓跋部を3つに分け、甥の拓跋猗盧(たくばついろ)盛楽(せいらく)を拠点とする西部を任された。
この頃、西晋は八王の乱で弱体化していたが、拓跋部は晋王家に忠実で、304年に漢を建国した劉淵の脅威に対し、
并州刺使(へいしゅうしし)司馬騰や慕容部の慕容廆(ぼようかい)、兄の拓跋猗㐌(たくばついや)、叔父の拓跋禄官(たくばつろくかん)らと共にこれに当たった。拓跋禄官の時代に拓跋部は騎兵40万を擁していたとされる。
304年9月に
劉琨(りゅうこん)が新たに并州刺史(へいしゅうしし)となる。307年に禄官が死去したので猗盧(いろ)大人(たいじん)となり、3つに分かれていた拓跋部を再び一つにした。劉琨拓跋猗盧との交誼を深め、拓跋部は喜んで劉琨に協力した。310年に劉琨(りゅうこん)猗盧(いろ)は義兄弟の契りを結び、劉琨の上表で彼は代公に封じられ、陘嶺(けいれい)以北5県の支配を認められた。ところがこれが幽州刺史(ゆうしゅうしし)王浚の怒りを買い、以後王浚とは戦ったり共に協力する間となった。310年から312年にかけて拓跋猗盧(たくばついろ)の戦術は終始漢に対しても王浚に対しても優勢であった。
312年11月に劉琨(りゅうこん)と拓跋軍は
并州(へいしゅう)を回復。劉琨はそのまま漢軍を追撃することを主張したが、拓跋猗盧(たくばついろ)は「兵は休息を望んでいる」と言って、それを押しとどめた。これによって流れが変わる。313年に漢の反攻が始まり、拓跋猗盧(たくばついろ)は勝つことも負けることもあった。315年2月に西晋の愍帝(びんてい)拓跋猗盧(たくばついろ)を代王に封ずる。
彼は将として卓越し人心掌握にも長け、規律に厳しく、劉琨ですら常にへりくだって接するほどの人格者だったが、長子の拓跋六脩(たくばつろくしゅう)にだけは別で、優れた右腕であった彼を粗略に扱ったため、それを怨まれて長男に殺された。
その死後、拓跋部は四散し、また数十年の雌伏の時を送ることとなった。
楊茂搜(ようもそう) (?~317年)
(てい)族の国である前仇池(きゅうち)の建国者。
劉琨(りゅうこん) 字;越石 (271年~318年) 『晋書』巻62(列伝32)に伝あり。
ひとりでがんばっていた人。
『晋書』の「劉琨列伝」には、「劉琨は人心を掌握する力には長けていたが、それを統制する能力はなかった。彼の元に集う人は多いが、去る人間も多い」「もともと贅沢が好きで、音楽や色恋が好きな性格で、みずからこれを自分の欠点であると考え、節制するように心がけていたが、ふとしたことですぐ元に戻ってしまう」と記されている。
段疾陸眷(だんしつりくけん) (?~318年)

劉隗  (273年~333年)
曹嶷(そうぎょく) (?~323年)

蘇峻(そしゅん) 字;子高 (?~328年)  『晋書』巻100(列伝70)に伝あり。
青州の地方役人の家に生まれ、310年前後の永嘉の乱で世が乱れると、流民を集めて青州掖県(えきけん)に砦を構える。その勢力は幾多の流民集団の中で最強だった。
318年に建康で立った晋の新帝
(元帝)の耳に蘇峻の驍名が入った。建康から青州は遠かったので帝は蘇峻に安集将軍(あんしゅうしょうぐん)という名前だけ贈った。たまたま後趙の曹嶷(そうぎょく)が晋に接近して西晋の青州刺史になったばかりだったが、彼は後趙の石勒(せきろく)にも忠誠を誓っていた。曹嶷が蘇峻の集団を危険と感じて討とうとしたので、素早く海路で数百戸の民を率いて広陵に逃れる。東晋宮廷はこれを大歓迎して迎え、鷹揚将軍(ようようしょうぐん)の位を与えた。
帰属直後に蘇峻は
周撫(しゅうぶ)の乱や王敦(おうとん)の乱の鎮圧に功を挙げた。彼は様子を見ながらタイミングを図り最適の時に兵を動かすことに長けていた。瞬く間に出世し数々の称号を得て、邵陵(しょうりょう)(荊州南部)に任じられ、ますます流民が慕って集まった。
325年に明帝の違勅で政権を握った
庾亮(ゆりょう)は、法治主義を厳しくし、地方軍権の力を削ごうとしはじめた。庾亮から「大司農に任ずるので都に来るように」という命令が届いたが、蘇峻はこれを疑い、腹を立てて327年に庾亮討伐の兵を起こし、一時は建康を占領して庾亮を都から逃亡させ、成帝を石頭城に幽閉した。
劉胤 (?~329年)
前趙の建国帝(劉曜)の子。
石勒(せきろく) (274年~333年)
夏の景帝劉虎(りゅうこ) (?~341年)
匈奴鉄弗部の族長。
姚弋仲(ようよくちゅう) (279年~352年)
姜族の部族長で、323年に前趙の劉曜に、329年に後趙の石勒に帰属。
史上最悪の暴君でどんなお気に入りでも必ず殺す石虎に、何を言っても殺されない数少ない人間であった。
楊茂搜(ようもそう) (?~317年)
前仇池(ぜんきゅうち)の建国者。
温嶠 (288年~329年)
庾亮(ゆりょう) (289年~340年)
殷浩(いんこう) (?~356年)
王羲之(おうぎし) (303年~361年)
石虎(せきこ) (295年~359年)
暴君だらけだった五胡時代でも最大の暴君であり、なのに政権を崩壊させなかった不思議な君主。(息子たちには背かれまくった)
冉魏の武悼天王・冉閔(ぜんびん) (?~352年)
桓温(かんおん) (312年~373年)
北魏の昭成帝・拓跋什翼犍(たくばつじゅうよくけん) (318年~376年) ※「昭成(しょうせい)皇帝」とは拓跋珪の北魏建国(398年)後に贈られた諡号。
拓跋鮮卑(たくばつせんぴ)の中興者。まだこの頃の拓跋部の国号は「(だい)」。首都は盛楽を軸にしてあっちこっちに移動。
父は拓跋鬱律(うつりつ)(平文帝)、兄は拓跋翳槐(えいかい)(烈帝)。
9歳の頃、兄の烈帝の命を受け、後趙へ人質として赴き10年を過ごす。石勒(せきろく)石虎(せきこ)の覇業に接し、強烈な印象を受けたという。19歳のとき
(338年)病死した兄帝の遺言により代国へ戻って即位。このときのいざこざ解決に弟の拓跋孤(たくばつこ)の尽力が大きかった。
即位直後に晋の官制にならった「百官」を置き、漢人を積極的に登用した。また清廉で簡潔な法を定めた。一方で「左右近侍(さゆうきんじ)の職」という、遊牧部族長や漢人豪族の子弟の中から容姿端麗で頭脳明晰な者ばかりを集めた側近集団を作った。これは諸部族統治の円滑化のためのものとされる。そのために「北部大人(たいじん)」「南部大人(たいじん)」という統括官も設置し、北部大人に弟の拓跋孤、南部大人に庶長子の
寔君(しょくくん)を任じた。 即位にあたって後趙の石虎の承認を得たがすぐに離反。前燕の慕容皝(ぼようこう)と婚姻関係を重ね、友好を樹立。
その後約40年、ゴビ砂漠の
高車(こうしゃ)やオルドスの鉄弗部(てつふつぶ)、前燕と何度も戦っては戦っては戦う日々が続く。彼の軍隊はいくら戦っても決して負けることはなかった。
苻堅の前秦へは366年に入貢していたが、370年に前燕を滅ぼした苻堅は、376年に鉄弗部の劉衛辰(りゅうえいしん)の要請に乗って20万を派遣。什翼犍(じゅうよくけん)は初めて負ける。このとき彼は病を煩っていてその責を任せる人が近くにいなかったという。彼は戦場には居なかったが、一時的に隠山(いんざん)の北に逃れた。1ヵ月後に軍を立て直すために首都に戻ったところ、後継者にされないと思い込んだ愚鈍な息子の寔君(しょくくん)に殺害された。
什翼犍の最期については異説が多数あり、苻堅を過大評価する『晋書(しんじょ)』では苻堅の元での拓跋什翼犍の生存説がある。
姚襄(ようじょう) (331年~357年)
謝安(しゃあん) (320年~385年)
王猛(おうもう) (325年~375年)
後燕の成武帝・慕容垂(ぼようすい) (326年~396年)
王坦之(おうたんし) 字;文度(ぶんたく) (330~375)
父は王導のもとで地方長官と将軍職を歴任していた王述。
若くして名を知られ、桓温の配下となるが、372年に晋の簡文帝が死に際して桓温に帝位を譲る勅を作ろうとしたとき、それを破る役をする。
「胆力に勝れた人」という評価をされる。また老荘思想を批判する「廃荘論」でも知られた。
後秦の武昭帝・姚萇(ようちょう) (331年~394年)
前秦の2代皇帝・苻生(ふせい) (335年~357年)
郗超(ちちょう) 字;景興、敬輿 (336年~378年)
桓温の腹心。
夏の桓帝・劉衛辰(りゅうえいしん) (?~392年) ※「桓皇帝」とは赫連勃勃の夏建国(407年)後に贈られた諡号
オルドス地方の匈奴の鉄弗部(てつふつぶ)大人(たいじん)赫連勃勃の父。
彼以前の鉄弗部は代国の
拓跋什翼犍(たくばつじゅうよくけん)に従ったり、一族離間策によって弱体化されたり、苦難を強いられていた。
359年に大人(たいじん)
(=部族長)となった劉衛辰は拓跋什翼犍に従し、その娘を娶った。一方で什翼犍に異心を抱いて前秦の苻堅にも接触し、左賢王の位を得た。無規範なところの多い劉衛辰は理想論者の苻堅とも合わなかったため、以後の彼は(だい)拓跋什翼犍と仲良くしながらたびたび彼に反抗し、苻堅にもたまに戦いを挑みながら、前秦の援助を得て代国といさかう生活が続く。オルドスの鉄弗(てつふつ)の地理的な重要性を、苻堅もよく理解していたのだった。
376年に苻堅は劉衛辰の要請を受け20万の軍勢で代国征討の軍を起こす。拓跋什翼犍は敗退し、息子に殺害された。苻堅は代国を東西に分割し、東部を独狐部(どっこぶ)劉庫仁(りゅうこじん)、西部を劉衛辰に任せた。劉衛辰は“西単于(ぜんう)”に任じられ、オルドス中南部に代来(だいらい)城を建設。劉衛辰と劉庫仁は仲が悪く、苻堅劉庫仁の方を上の地位にしたことに怒って劉衛辰はたびたび叛いた。
385年に苻堅が死んで前秦が滅びると、西燕・後秦・後燕と交流を持ちながら、勢力を拡大し始めた拓跋鮮卑の拓跋珪(たくばつけい)と争う。

391年に、後燕との戦いを繰り返している北魏に対して息子の劉直力鞮(りゅうちょくりきでい)にたびたび侵攻させるが、10月に親征した拓跋珪に返り討ちにあう。拓跋珪は6千の兵で鉄岐山の南で9万の鉄弗軍を粉砕。その勢いで黄河を渡り、劉衛辰の本拠地の代来城まで押し寄せた。劉衛辰は逃亡を図ったが部下に殺害され、息子らも捕らえられ誅されて、拓跋珪は鉄弗部の滅亡を宣言した。(3男の劉勃勃だけが𠮟干部(しっかんぶ)に逃れて保護された)
苻堅(ふけん) (338年~385年)
謝玄(しゃげん) 字;幼度 (343年~388年)
謝安の甥。
383年に「淝水の戦い」で前秦の苻堅を破る。
毛興(もうこう) (?~385年)
前秦の忠臣。氐族の出身。苻堅の時代に河州刺使(=現在の甘粛省臨夏回族自治州)に任じられた。
司馬道子(しばどうし) 字; 道子(どうし)(※名前とあざなが同じ) (364~403年)
東晋の簡文帝(第8代)の末子。会稽王。
精神薄弱の安帝
(第10代)の補佐としてわがままと専横を極め、東晋の末期を象徴する存在であった。
乞伏乾帰(きつぶくけんき) (?年~412年)
西秦の第2代。 鮮卑乞伏部。
劉牢之(りゅうろうし) 字; 道堅 (?~402年)
“常勝将軍”と呼ばれるほど戦いに強かったが、三度味方を裏切ることをしたため、腹心の劉裕に見捨てられ、桓玄との戦いに敗れて自縊した。
孫恩(そんおん) (?~402年)
長江河口域で五斗米道の指導者。極めて残虐な性格だった。
399年に東晋に対し「孫恩の乱」を起こす。
何無忌(かむき/かぶき) (?~410年)
劉牢之の甥。
策略を用いて勝利する戦術の達人だったが、盧循の乱で戦死。
北魏の道武帝・拓跋珪(たくばつけい) (371年~409年)
宋の武帝劉裕(りゅうゆう) (363年~422年)
420年に宋を建国。
桓玄(かんげん) (369~404)
桓温の末子。
403年12月に東晋の安帝から禅譲を受けて皇帝に即位、国号を「楚」
(桓楚)としたが、3ヵ月後に起こった劉裕のクーデターに敗れ、2ヵ月後に部下に殺害された。
()の武烈帝・赫連勃勃(かくれんぼつぼつ) (381~425)
檀道済(だんどうせい) (?~436年)
劉裕の部将として劉宋の建国に功があり、第2代・少帝を廃して立てた第3代・文帝に殺された。
『兵法三十六計』の著者。
崔洪(さいこう) (381年~450年)
北魏に仕えた漢人。
「国史事件」で処刑された。
沈慶之(しんけいし) (384~465)
盧循(ろじゅん) (?~411)
孫恩の妹婿。410年に宋に対して「盧循の乱」を起こす。
謝霊運(しゃれいうん)(385年~433年) 『宋書』巻67「謝霊運伝」
謝玄の孫。南北朝時代を代表する詩人。陶淵明と並び称される。
会稽で生まれる。幼時に王羲之の姪である母に書を学んだ。4歳のとき謝玄が死去したので銭塘(せんとう)の道士・杜明師(とめいし)杜昊(とこう)杜子恭(としこう)に預けられ、そこで道教に親しみながら大切に養育される。杜明師は東晋の貴族界に広く影響力を持っていた五斗米道の霊能力者である。15歳のとき、建康の烏衣港(ういこう)謝琨(しゃこん)の邸へ。(謝琨は謝安の孫)。烏衣港では謝氏・王氏ら貴族の子弟たちの優雅なサロンが形成されていて、謝琨は霊運をとても可愛がった。ここで謝霊運は廬山(ろざん)慧遠(えおん)(=中国浄土宗の祖)を知り、仏教に深く傾倒するようになる。
35歳のとき東晋が滅びると劉宋に仕えた。しかし傲慢な性格であったためすぐに致仕し、会稽の裕福な自領で悠々自適な生活を始め、詩作に励んだ。
戴法興(たいほうこう) (414~465)
宋の孝武帝(劉駿)の寵臣。
もともと会稽山陰
(紹興市)(くず)を売る貧しい商人だったが、学問が好きでそれを極めて役人となった。(特に文章に長じていたといわれる)。孝武帝が没すると前廃帝に誅された。
楊難当(ようなんとう)  (?~?)
沈攸之(しんゆうし) (?~478年)
沈慶之の甥。沈慶之とは仲が悪かった。劉宋の明帝に重んじられたが、宋に殉じて戦死した。
袁粲(えんさん) (420年~477年)
南朝の名門貴族である袁氏の一員であるが、ごく幼い頃に父を失い、母と祖母に育てられる。若い頃の名は祖母が名付けた“愍孫(みんそん)(=かわいそうな孫)で、彼はこの名を25歳まで使っていた。母への孝行の話が有名。
宋の明帝(劉彧)の頃その名が高まり、472年に明帝が死去するとき、楮淵
劉勔(りゅうべん)と共に後事を託される。後廃帝・劉昱の代(472~477年)には簫道成楮淵劉秉と合わせて国政に関わり、“四貴”の一人と称された。彼はなかなか言葉を発しない性格だったが、ひとたび口を開くとその内容は見事だったという。
袁粲と楮淵は親友の間柄で、驕慢・残忍な後廃帝を見かねた簫道成が廃帝の謀略を袁粲と楮淵に図ったところ、楮淵は賛成し、袁粲は反対した。袁粲は簫道成を討つために挙兵したが逆に向かい討たれ、建業
(南京)の石頭城で敗戦して斬られた。
袁粲の名は忠臣の鑑として称えられる。
南斉の高祖・簫道成(しょうどうせい) (427~482)
馮太后(ふうたいこう) (442年~490年)
北魏の文成帝(第5代)の皇后で、献文帝(第6代)・孝文帝(第7代)の補佐をして諸制度を定めた。
梁の武帝・簫衍(しょうえん) (464年~569年)
北魏の孝文帝・拓跋宏(たくばつこう) 北魏の“高祖” (467年~499年)
南斉の東昏侯(とうこんこう)簫宝巻(しょうほうかん) 字;智蔵 (483年~501年)
南斉の第6代皇帝。廃帝。
刑巒(けいらん) (464年~514年)
楊大眼(ようたいがん) (?~518年)
後仇池の君主だった楊難当の孫。北魏に仕え、その武勇は関羽・張飛を上回るとされたという。
南朝・梁の軍と戦ってたびたび軍功を挙げる。506年に王茂率いる2万を撃破し河南城を奪回。
506年11月~507年4月の「鐘離の戦い」で中山王元英とともに北魏軍数十万を率いて、梁の20万と当たったが敗けた。
陳慶之(ちんけいし) (484年~539年)
南朝梁の名将。田中芳樹の『奔流』の主人公。真白に身を纏った騎馬隊「白袍隊(はくほうたい)」を率いる。
南斉の一門であった
簫衍(しょうえん)の家に仕えていて、502年の簫衍の梁建国にも従ったが、この頃の彼は文官で、武功を挙げることはなかったといわれる。
破六韓抜陵(はろくかんばつりょう) (?~?)
北魏の衰退の原因となった「六鎮(りくちん)の乱」(523年~530年)の主導者。
(ちん)」とは北方からの侵入を阻止するために設けられた軍事基地のことで、北魏の成立当初には数十の鎮があったが、やがて470年頃までには「懐朔鎮」「武川鎮」「憮冥鎮」「柔玄鎮」「沃野鎮」「懐荒鎮」の6つにまとめられていた。北魏の孝文帝の在位時代(471年~499年)に漢化政策によって北方の鎮が軽んじられるようになったため、六鎮の住人は不満を高まらせていた。
葛栄(かつえい) (?~528年)
「六鎮の乱」の指導者
爾朱榮(じしゅえい) 字;天寶 (493年~530年)
匈奴族の一派(稽胡・契胡族)で、秀容郡(山西省)で八千戸を率いる酋長の家の出身。
柔然の内乱の鎮圧
で名を挙げる。
528年頃に権勢が極まり、孝荘帝に娘(大爾朱氏)を嫁がせた。
529年に葛栄を討ち、六鎮の乱を平定。
530年に孝荘帝に暗殺された。
紇豆陵歩藩(こつとうりょうほはん) (?~530年)
オルドスの匈奴系遊牧民の費也頭(ひやとう)の首領。
530年12月にガラ空きとなっていた爾朱兆の本拠の晋陽を襲撃
。北魏の孝荘帝の要請を受けたものであった。このとき高歓が策を弄して戦場に来なかったため、紇豆陵歩藩は爾朱兆軍を撃破して、王士良らを捕らえた。一転して高歓が爾朱兆に恩を売るために爾朱兆軍に合流すると、紇豆陵歩藩は負けて捕らえられ斬られた。
爾朱兆(じしゅちょう) 字;万仁 (?~533年)
530年から3年続いた「爾朱氏の動乱」の中心人物
専横を極めた爾朱栄を主君の孝荘帝が530年に紂断した始末がこじれにこじれたのは、爾朱栄の親類が英雄面に優れた傑物揃いだったということが大きい。
爾朱兆は爾朱栄の甥。勇猛な人物で若い頃から武勇伝が多かったが、完全人物であった爾朱栄は甥を溺愛しつつ、「兆には三千騎を率いる能しかない。それ以上を率いたら乱れる」と言ったという。(『魏書』75 爾朱兆伝)
530年9月に北魏の孝荘帝により爾朱栄が謀殺されると、爾朱兆・爾朱世隆・爾朱天光・爾朱仲遠らが激怒して洛陽を急襲。12月に孝荘帝を捕らえて殺害した。

532年に韓陵の戦いで高歓に大敗。
高歓に追撃された爾朱兆はその都度敗れ、533年1月に赤洪嶺で負けた爾朱栄は、山の奥の樹で首を吊って死んだ。
のちにその遺体を回収した高歓は、それを丁重に扱い、手厚く葬ったという。
爾朱天光
爾朱仲遠
爾朱世隆
賀抜岳(がばつがく) (?~534年)
爾朱栄に仕えた優れた武人だったが、その武名を妬む高歓に命を受けた侯莫陳悦(こうばくちんえつ)に欺し討ちにされた。
万侯洛(ぼくきらく) (?~539年) 
費也頭(ひやとう)出身の武人。六陳の乱が起こると破六韓抜陵に従い、そののち北魏に降って爾朱栄のもとで戦い、高歓にも厚遇されて、平和に死んだ。
李弼(りひつ) (494年~557年)
西魏の八柱国(はちちゅうこく)のひとり。戦さにとても強い。
北魏に生まれたが、34歳で爾朱氏が権勢の最高潮の頃、爾朱天光に見いだされてその配下に入る。
羊侃(ようがん) (495年~549年)
高歓(こうかん) 字;賀六渾 (496年~547年)
鮮卑族の出身。東魏の権臣。野心は甚だしかったが結局みずからの国を建てることをせず、次の世代に北斉が建国されてから「献武帝」「神武皇帝」の号が贈られた。
彭楽(ほうがく) 字;興 (?~551年)
高歓に仕えた将軍。537年の沙苑の戦いで酔っ払って人離れした活躍をする。
侯景(こうけい) (503~552)
宇宙大将軍。
王僧弁 (?~555年)

陳覇先 (503年~559年)
宇文泰(うぶんたい) (505年~556年)
北斉の文宣帝・高洋(こうよう) 字;子進 (529年~559年)
高歓の次男。25歳のときに北斉を建国。
数々の暴虐エピソードで語られる暴君。
呉明徹 (512年~578年)
宇文護(うぶんご) (513年~572年)
斛律光(こくりつこう) (515~572)
父は北斉の大将軍だった斛律金。
尉遲迥(うっちけい) 字;薄居羅 (516年~580年)
母が宇文泰の姉。
580年に楊堅に対して反乱を起こす。
司馬消難(しばしょうなん)  (?~589年)
司馬子如の子。
580年に反乱を起こした尉遲迥に呼応して挙兵したが、敗れて陳へ亡命。
和士開(わしかい) (524~571)
王琳 (526~573)
顔之推(がんしすい) (532年~591年)
蘭陵王(らんりょうおう)・高長恭 (541~573)
祖珽(そてい) (550~577)