< 表紙 >
古代アッシリア王名表
◎古アッシリア時代 (紀元前2000年頃~紀元前1600年頃)
スリリ王 / シャムシ・アダト1世
◎大雌伏期()
◎中アッシリア時代 ()
アッシュールウバリト1世 / アダドニラリ1世 / トゥクルティニヌルタ1世
◎第2~第3雌伏期()
◎新アッシリア時代 (紀元前911~紀元前609)
アッシュールナシルパル2世 / シャルマネセル3世 / ティグラトピレセル3世
◎サルゴン王朝 (紀元前721~紀元前609)
サルゴン2世 / センナケリブ / エサルハドン / アッシュールバニパル
≪古アッシリア王国-1≫ ~伝説の王たち~
第1代から第17代 までの王は「テントに居住していた王」と記されている。
アピアシャル以降の10人は「祖先である10人の王」。
初期の王名表は『シュメール王朝表』を参考にして第39代シャムシ・アダドによって編纂されたが、彼の征服と勝利の栄光を反映するために、かなり虚構の部分が見られるという。(アモリ系の部族名にちなんだ名も記されているという)
1.トゥディヤ(在位年代不明) 2.アダム(在位年代不明) 3.ヤンギ(在位年代不明) 4.サフラム(在位年代不明)
5.ハルハル(在位年代不明) 6.マンダル(在位年代不明) 7.イムツ(在位年代不明) 8.ハルツ(在位年代不明)
9.ディダヌ(在位年代不明) 10.ハヌ(在位年代不明) 11.ズアブ(在位年代不明) 12.ヌアブ(在位年代不明)
13.アバズ(在位年代不明) 14.ベル(在位年代不明) 15.アザラス(在位年代不明)
16.ウシュピア(在位年代 不明)
アッシュール市にアッシュール神のための大神殿エフルサグ・クルクルラ(”諸国の山の神殿”の意)を建設した。
17.アピアシャル (在位年代 ;不明)
18.ハレ (在位年代 ;不明)
19.サマヌ (在位年代 ;不明)
20.ハヤヌ (在位年代 ;不明)
21.イル・メル (在位年代 ;不明)
22.ヤクメシ (在位年代 ;不明)
23.ヤクメニ (在位年代 ;不明)
24.ヤズクル・イル (在位年代 ;不明)
25.イラ・カブカブ (イラ・カプカプ) (在位年代 ;不明)
第39代 シャムシ・アダドの改竄による王の名。
彼は、自分の簒奪を正当化するために自分の父の名を、時代をさかのぼって数百年前の王の名に書き入れた。
26.アミヌ (在位年代 ;不明)
(※番外) 他の王国の記録に残っているアッシリアの支配者の名。 (王名表には含まれていない)
(-)イティティ (アッカド時代) 前2330~前2230年ごろのいつか。アッカド時代のイシュタル神殿から出てきた石板(アッシュールで発見された)。
「イニン・ラバの息子である施政者イティティは、ガスルの戦利品からこれ(石板)をイシュタルに奉納した」
(-)アズズ (アッカド王国のマニシュトゥシュ王(在位;前2269~前2255年)の時代)
同じくイシュタル神殿から見つかった槍の穂先の銘文。
「キシュの王マニシュトゥシュのしもべであるアズズ」
(-)アッシュールの代官ザリクム (ウル第三王朝の王アマル・スエン(在位;前2046~38)の時代)
「ウルの王であり、四界の王であり、強壮な男であるアマル・スエンの長寿を願って、彼の僕であるアッシュールの代官ザリクムが、その女主人であるベーラト・エカリム(=イシュタル)の神殿を再建した」
≪古アッシリア王国-2≫
27.スリリ(ツィルル王) (前2000年ごろ)
初めて「ウル第三王朝」の支配下から脱した王。(←ウル王朝の崩壊によって)
彼が使用した印章には「(土地)アッシュールが王、スリリが副王、(スリリは)アッシュール市の伝令であるダキキの息子」と刻んである。 父ダキキの名は王名表には載っていないが、その役職とされる「伝令」とは、特別な職業だったらしい。
28.キキヤ (在位年代 ;不明)
アッシュール市の城壁を初めて築いた王とされる。
29.アキヤ (在位年代 ;不明)
30.プズル・アッシュール 1世 (前21世紀初め)
本によっては、この王が「ウル第三王朝」「イシン王朝」から独立し、アッシリアの独立王朝を建国した、と書いてある。
31.シャリム・アフム (在位年代 ;不明)
32.イル・シュマ (在位 ;前21世紀なかば)
バビロン第一王朝の祖スム・アブム(在位;前2057~2044)と争う(?)。
この王の時代、アッシリアはバビロニアやティグリス河以東の地方に「自由を確立した」。
33.エリシュム 1世 (在位年代 ;不明)
碑文が多い(17点)。
34.イクヌム (在位年代 ;不明)
35.サルゴン1世 (在位年代 ;不明) ※サルゴン=(アッカド語)「確固たる王(シャル(ム)・キン)」
アッカド王国の「サルゴン大王」(在位;前2334~2279)とは、別人。
36.プズル・アッシュール 2世 (在位年代 ;不明)
37.ナラム・シン (在位年代 ;不明)
アッカド王朝の同名の名高い「ナラム・シン」(在位;前2254~前2218)と、どのような関係があるかは不明。
祖父のサルゴンがアッカドのサルゴン大王と混同されることが多かったため、こちらも混同されて王名表の中に書き入れられてしまったのではないか。(根拠の無い推測)
※アッカドで、サルゴンとナラムシンの間に入るのは「マニシュトゥシュ」王。また、同時期の都市エシュヌンナの支配者にも、同名の人物がいたらしい。
38.エリシュム 2世 (在位;前1920~前1900)
シャムシ アダドに王位を簒奪される。 この時期、アッシリアは弱体化しきっていた。
(なお、この支配年代は、とあるサイトで見つけてきたものなんだけど・・・ 間違っているよね。)
39.シャムシ・アダド1世 (在位;前1813~前1781/32年間)
”古アッシリア中興の祖”。
父の名は「イラ・カブカブ」・・・アモリ系小王国の王。
シャムシ アダドはそれまでの「アッシリア王国」を滅亡させたが、みずから新王朝を開くようなことをせず、王名表を改竄することで、自分がアッシリアの由緒正しい後継者である、とアピールした。
領土を西方へ拡大 ・・・・マリ王国を併合したことを手始めに、シュバト・エンリル、テルカ、エカラトゥム、カラナ、シュシャラなどを獲得し、メソポタミア全域に及ぶ支配権を確立。
広大な広大な領土の支配の権限を二人の息子に分割して与えた。
・自分;アッシリアの中央にある都市「シュバト・エンリル」。「世界の王」という称号を使用する。(ごくまれに)
・長子イシュメ・ダガン ・・・・ 「エカラトゥムの王」(エシュヌンナ等の外敵に対する備え)
・次子ヤスマハ・アッドゥ (イアスマダ・アダド)・・・・ 「マリの王」(シリア方面に対する備え)シャムシ アダドが死去すると、バビロニアのハムラビ王の援助を受けて、ヤスマハ アダドはマリから追い出され、旧・マリ王国の遺児ジム・リリムが返り咲く。
首都の物価を制定。 ”銀1シェケル(8.4g)に対し、穀物2クル(504リットル)、羊毛1シェケル5ミナ(7.5kg)、油1シェケル2セア(16.84リットル)”※ ちょっと意味が分からないんですが、銀1シェケルが8.4グラムなのに羊毛1シェケル5ミナが7.5キログラムって、どういう単位なんだ、ミナ。この王が死ぬ前後までバビロン第一王朝のハムラビ(位;前1792~前1750) が「シャムシ・アダドに」臣従していた(らしい)。
40.イシュメ・ダガン 1世 (在位;前1780~前1741/39年間)
前1762年から、バビロン第一王朝のハムラビ王がメソポタミアの大外征を開始し、一時期強大な勢力を誇り、アッシリアはたびたびこれに敗れた。
前1759年にはアッシリアはバビロニアに併合されている。
≪大雌伏期≫ 第40代前後から第68代にかけて。(前1740頃~前1363年)
北西の大国・ミタンニ王国の圧迫を受ける。
この時代、アッシリアの王の名前のみがかろうじて分かっている程度で、それ以外の資料は極端に少ない。
アッシリア王家の中では、王位簒奪が相次いだらしい。
しかし、この時代に長い服従の期間と独立への抗争を地道に重ねたことにより、アッシリアは「それまでの商業重視の性格から軍事主義的性格を鍛えていった」という。
41.アッシュール・ドゥグル (在位;前1741(?) ~?)
「名前のない人の息子」。
42~46.5人の王(名は不明)
47.アダシ王 (在位年代 ;不明)
48~55.8人の王(名は不明)
56.エリシュム 3世 (在位年代 ;不明)
57.シャムシ・アダト 2世 (在位年代 ;不明)
58.イシュメ・ダガン 2世 (在位年代 ;不明)
59.シャムシ・アダト 3世 (在位年代 ;不明)
60.アッシュール・ニラリ 1世 (在位;前1540年ごろ)
わずかに、破壊された神殿・王宮の建造・修理の記録が残っている。
61.プズル・アッシュール 3世 (在位 ;前1540年ごろ~?)
前1500年ごろ (?)、バビロニア・カッシート王朝のブルナ・ブリアシュ1世と、国境の確定をした。
62.エンリル・ナツィル 1世 (エンリルナシル) (在位年代 ;不明)
63.ヌル・イリ (在位年代 ;不明)
中央公論社の『世界の歴史1 人類の起源と古代オリエント』には、この間に「アッシュール・シャドニ」「アッシュール・ラビ1世」「アッシュール・ナディン・アヘ1世」「エンリル・ナツィル2世」(在位 ;前1430~25) の4人の名が加えられている。(即位代の番号は振られていない)
アッシュール・ナディン・アヘ1世は、エジプトと同盟を結び、エジプト王から黄金を贈られた。なぜこれらの王の名が「王名表」に含まれていないのかは、不明である。
64.アッシュール・ニラリ 2世 (在位 ;前1424~1418)
65.アッシュール・ベル・ニシェシュ (在位 ;前1417~1409)
バビロン=カッシート王朝のカラ・インダシュ王と友好条約を結ぶ。
66.アッシュール・リム・ニシェシュ (在位 ;前1408~1401)
67.アッシュール・ナディン・アヘ(アケ) 2世 Asshur-nadin-akhe (在位 ;前1400~1391)
独立君主として、エジプト君主と文通。
68.エリバ・アダド 1世 (在位 ;前1390~1364)
≪中期アッシリア時代≫
69.アッシュール・ウバリト1世 (アッシュール・ウバルリト) (在位 ;紀元前1363~紀元前1328/29年間)
自分たちの土地に初めて”アッシリア”という名を付けた王。 それまではアッシリア人は、自分たちの土地を「シュバルトゥ」「スバルトゥ」と呼んでいた。
前1360年、強国・ミタンニ王国の内紛に乗じ、ヒッタイトのシュッピリウマ王と共同で、ミタンニ王トゥシュラッタを破り、その後トゥシュラッタが宮廷内の内乱で暗殺されたため、今度はフルリ王アルタタマと共同で、ミタンニの領土を分断してしまった。
エジプト王に戦車・馬・ラピスラズリを贈り、お返しに黄金を贈られる。 ところがこの黄金が期待していたより少なかった(600㎏未満)ので、「祖父アッシュールナディンアヘ(やハニガルバドの王)たちは昔もっともらっていた」という抗議の手紙をエジプトに送っている。
当初バビロニア王ブルナ・ブリアシュ3世はいまだにアッシリアを自分の属国とみなしていて、アッシュール・ウバリトがエジプト王アメンホテップ4世を「兄弟」と呼ぶつきあいを開始したとき、「なぜアッシリアが勝手にエジプトに行ったのか(自分には理解できない)、エジプトがもしバビロニアを愛するならば、アッシリアにどんな商売もさせないように」という脅しの内容の書簡を送っている(アマルナ文書)。
しかしまもなくバビロニアもアッシュールウバリトが強大な権力を有していることを認めざるを得なくなり、アッシリアの皇女を自分の息子の嫁として迎えた。
バビロニア王ブルナブリアシュ3世の死後、王となったその孫が暗殺されると、アッシュールウバリトはバビロニアの内政に干渉し、自分の曾孫クリガルズを王位につけた。
70.エンリル・ニラリ (在位;前1327~1318) or. (在位;前1340~1326ごろ) ?????
父がバビロニア王位につけたクリガルズと、激しく争う。
「神の代行者」である王が、初めて「リンム職」(市民の中から毎年くじで選ばれる俗権の代表者)に就任する。
71.アリク・デン・イリ (アリク・デーン・イル) (在位;前1317~1306)
このころ、シリア方面からアラム人が進入し、またスティ人やアフラメ人も登場し、王たちはその対応に忙しくなった。
72.アダド・ニラリ1世 Adad-nirariⅠ (在位;紀元前1305年~紀元前1274年/32年間)
Adad nārārīⅠ(「アダド神は我を助ける」の意)
アリク・デン・イリの息子。
即位直後から精力的な征服活動をおこなう。
西方ではハルラン、カルケミシュを占領。
東方ではバビロニア(カッシート王朝)のナジ・マルッタシュ(在位;紀元前1307年~紀元前1282年)と戦って勝利し、ラピク以北を奪う。
ハニガルバド(旧ミタンニ=シリア北部)の王シャトゥアラ1世を捕虜にし、朝貢を課した。 その後ふたたび同地に進軍し、シャトゥアラの子ワサシャッタを破り「アッシリアに反逆した」という理由で、多くの王族をアッシュールに連行する。
アダドニラリがヒッタイト王ムワタリに「兄弟」と呼びかけた書簡に対しヒッタイト王は不快を示し、「なぜ私がお前に兄弟と呼ばれなければならないか、私とお前が同じ母親の腹から生まれたとでも言うのか」という書簡を返している。(アッシュールウバリト1世の全盛期から70年経ってもまだアッシリアは新興国で、(エジプトとは違って)ヒッタイトからは一等国扱いをされていなかった)
それまで慣例として使われていた王の称号「エンリルの代官」「神アッシュールの副王」のほかに、かつてシャムシアダドが使った称号「世界の王」を復活させる。(以後、これが慣例化した)
73.シャルマネセル 1世(シャルマナサル) (在位;前1273~1244/29年間)
上のアダドニラリがおこなった、ハニガルバドの王シャトゥアラの対する勝利は、シャルマネセルの業績とする本もある。
ハニガルバドは、ヒッタイトやアラム人と結んでいたため、アッシリアはそれらとも争うようになる。アッシリアに対抗して、ヒッタイト王ハットゥシリ3世はバビロニア王カダシュマン・トゥルグと条約を結んだ。
東北部のウルアトリ(のちのウラルトゥ)をとりあえず平定する。
東方の山岳部族クタ人(グティウム人)を討って、莫大な戦利品を得る。
バビロニア軍を殲滅。
カルフ(要害の地 ;大ザブ河とティグリス河の合流点)に第二の王宮を建造。
74.トゥクルティ・ニヌルタ 1世 (ツクルチ・ニヌラタ) (在位;前1243~1207/36年間)
前1232年、バビロニア占領。 バビロニア王カシュ・ティリアシュをアッシュールに連行。
アッシリア王が短期間バビロンを直接統治したのち、(1年半後に叛乱が起こったので、バビロンを焼き払ってマルドゥク神殿の神像を略奪した後)、傀儡政権をバビロニアに立てる。
『トゥクルティ・ニヌルタ英雄叙事詩』・・・対バビロニア戦の武勲。アッシリアに代々うたわれる。「彼の力は栄光に満ち、前後の不敬な者を焼き焦がす。彼の激しさは燃え立ち、左右の従わざる者を焼き尽くす。都市アッシュールに巨大な新王宮を建造したが、どうしたわけか彼自身はこれを使用しなかった。
彼の輝きは恐ろしく、全ての敵を打ち破る。 彼は四方の隅まで征服し、王たちはひとりのこらず恐れて生きる」
さらにアッシュールの郊外に、新都カール・トゥクルティ・ニヌルタ(=トゥクルティニヌルタの港)を建造。 新都造営には強制連行された被征服民を使用。 しかし王の死後、この新都は打ち捨てられる。
ギリシャの伝説中で「ニノス王」と呼ばれる。息子のひとりに暗殺される。 略奪されたマルドゥクの神像の神罰、とうわさされる。
≪第2次雌伏期≫
75.アッシュール・ナディン・アプリ (在位;前1206~1203)
のちのアッシュールバーンアプリが「アッシュールバニパル」と呼ばれるならば、この王は「アッシュールナディプル」と呼ぶんでしょうか? 王国の一時的衰退開始。
76.アッシュール・ニラリ 3世 (在位;前1202~1197)
77.エンリル・クダリ・ウスラ (在位;前1196~1191)
78.ニヌラタ・アッパール・エクル (在位;前1191~1179)
79.アッシュール・ダン 1世 (在位;前1178~1133)
80.アッシュール・レシャ・イシ 1世 (レーシュ・イシ) (在位;前1132~1115)
バビロニア、グティウム人、アラム人、ルルビ人を討つ。
81.ニヌルタ・トゥクルティ・アッシュール (ニヌラタ・ツクルチ・アシュル) (在位;前1115~1114)
82.ムタッキル・ヌク (ムタキル・ヌスク) (在位;前1115~1114)
第81代と第82代の在位年代が重なってるんですよねー。どうして?
83.ティグラト・ピレセル1世 Tiglath-pileserⅠ (チグラス・ピレセル) (在位;前1114~1076/38年間)
ヒッタイト帝国崩壊後に出現したムシュキ人、カシュキ人を討つ。 北方のナイリに3度進出。
アッシリア王として「初めて地中海まで進出」。「ユーフラテス川を28回渡った」 ・・・シリアに14回遠征したことを意味する。
富裕なフェニキア都市アルワドに入城し、エジプト王から贈り物を得る。
タドマル(=パルミラ)、スヒなどのアラム人を、何度も討伐。マルドゥク・ナディン・アヘ王を攻めて、バビロンを焼き払い、バビロニアを臣従させる。
地中海の海豹狩り、シリアの象狩り、獅子狩り、などのスポーツを好む。
農業の保護・奨励、行政制度の改正、神殿・王宮の造営、などの政策。
「ハムラビ法典」などをを手本とした「中期アッシリア法典」の編纂。 『宮廷法令集』、『ハレム法令集』。 ;女性に関する条項が多く、女性の人権保護の様子がうかがえるという。
しかしまもなくアラム人の侵入と、大飢饉が重なり、アッシリアの国力は大きく後退。ティグラト・ピレセルも暗殺された。
≪第3次雌伏期≫
西方のアラム人や、東方のルルビ人の侵入に苦しみ、王国の領土はティグリス流域の狭い地域に縮小。
84.アシャレド・アピル・エクル (アシャリド・パル・エクル) (在位;前1076(?)) or (在位;前1075~74)
85.アッシュール・ベル・カラ (在位;前1076~1057)
86、87.王の名は不明
88.シャムシ・アダド 4世 (在位;前1053~1049)
89~93.5人の王(名は不明) (前1049~1010)
94.アッシュール・ラビ 2世 (在位;前1010~970)
95.アッシュール・レシ・イシ 2世(アッシュール・レーシュ・イシ) (在位;前969~967)
96.ティグラト・ピレセル 2世 (チグラス・ピレセル) (在位;前966~935)
97.アッシュール・ダン 2世 (在位;前934~912)
ふたたびアッシリアの勢力拡大開始。このころアッシリアの統治政策として、被征服民の強制移住が、以前にもまして活発におこなわれるようになる。
≪新アッシリア時代≫
98.アダド・ニラリ 2世 (在位;前911~891)
北方の征討、バビロニアとの和約、さらに七度ハニガルバドを討ってこれを「一の国」とする。
99.トゥクルティ・ニヌルタ 2世(ツクルチ・ニヌラタ) (在位;前890~884)
北方の「前人未踏の地」まで攻め入る。 ユーフラテス河中流域まで平定。「あらゆる敵を殲滅し、敵の死骸を杭に刺す」
100.アッシュール・ナツィルパル2世 AššurnāşirpalⅡ (在位;紀元前883年~紀元前859年/25年間)
アッシュールナシルパル2世 AshurnasirpalⅡ 、アッシュール・ナツィル・アプリ Aššur-nāşir-apli (「アッシュール神は後継者を守護する」の意)
アッシリアの帝国主義化を始めた帝王。
トゥクルティニヌルタ2世の子。
精力的で残酷な大征服王であり、アッシリア君主の典型とされる。
反抗する敵に対しては徹底的な破壊でもってむくい、服属民には重い貢納を課した。
≪アッシュールナシルパル2世の軍隊≫
アッシュールナシルパル2世の代になって飛躍的にアッシリアの征服力が増したのは、従来の2頭立て2人乗りの馬車を3頭立て3人乗りの馬車に改造し、戦車隊の攻撃力を倍増させたことと、戦車隊と併走する「騎兵隊」を創設したことだとされる。兵が馬に跨がって戦う「騎兵」はアッシュールナシルパル2世の時代の壁画が「世界初」だという。
それに加えて官制の改革もおこなった。
反抗した敵に対しては徹底的な破壊政策で応じたので、シドン、ビュブロス、アルワドのフェニキア都市は、王の軍が近づいてくるだけで朝貢した。
≪残酷な戦争≫
「わたしは捕虜を奪いその多くを火の中で燃やした。生かしておいた者のうちいくらかは手首を切り落とさせた。残りの者からは鼻、耳、指を切り落とさせた。兵士たちの多くから私は眼を取った。彼らの若者、娘、子供らを焼いて殺した」
「反抗した貴人たちの皮膚をわたしは剥ぎ、彼らの皮膚を広げて積み上げた」
「わたしは武器を深海で清め、神々に羊を供えた」
≪アッシュールナシルパル2世の征服≫
「ティグリス河の彼岸から大海(地中海)に至る、全ラケおよびスヒを、(バビロニアとの境の)ラビクに至るまで征服し、スブナト水源からギルザンまで、下ザブ河の彼岸からザバンの上のティル・バリまで、ティル・シャ・アブダニからティル・シャ・ザブダニまでの地方を」征服した。
≪ニムルド(カルフ)への遷都≫
首都をニネヴェからカルフ(現在のニムルド)に遷都し、新しい大王宮を建造。
101.シャルマネセル3世 ShalmaneserⅢ (在位;紀元前858年~紀元前824年/35年間)
シャルマナサル3世、シャルマヌ・アシャレド Shulmanu asharidⅢ(「シャルマヌ神は至高なり」の意)
父の遺策を継いでさらなる領土の拡大政策を推進。
35年の治世で35回遠征した。(治世4年目には2回の遠征)
しかしシリア(アラム人と新ハッティ人の諸国)に遠征したとき、カルケミシュやアレッポは進んで降伏したが、ダマスクス王国のビル・イドリ王(旧約聖書のベン・ハダド)はイスラエルの十二王と同盟して、激しく抵抗した。
前854年、カルカルの戦い ・・・ アッシリアとダマスクスの両軍が、大損害をこうむる。
ヘルモン河の戦い ・・・ シャルマネセルはダマスクス王ハザエルの守る堅城を落とすことが出来なかったため、ハウランまでの周辺の土地を荒らし回った。
これに畏れて、シドン、ティルスなどのフェニキア都市と、イスラエル諸王のうちイェフはアッシリアに朝貢。
小アジア(キリキア、タバル)に対する遠征。
北方のウラルトゥが強大になってきたので、何度か遠征したが、あまり効果は無かった。
バビロニア王に反逆したその弟を討つためにバビロンに遠征し、これを見事討ってバビロンの神殿で祭祀をおこない、バビロンにおけるアッシリア王の名声を強化する。
晩年、息子アッシュール・ダニン・アプリが叛乱を起こし、これは帝国全土に広がって王に対する大叛乱となった。 王はこれを鎮圧することが出来ず、カルフの王宮で、ひとりさびしく死んだ。
102.シャムシ・アダド 5世 (在位;前823~811)
父シャルマネセルを死に追いやった兄の叛乱を、バビロニアの援助を借りて鎮圧。
しかし、内政は混乱し、地方代官(官僚)の権力が増大した。 なかには独立国のように振る舞う臣下も出現。
103.シャミラム (在位;前811~806)
104.アダド・ニラリ 3世 (在位;前806~783)
幼年で即位したので、母サムラマト(セミラミス、シャムシアダド5世妃 ・・・セミラーミデ?)が、摂政として後見。(摂政の実状は不明) この賢明な母サムラマトのはなしは、のちにギリシャで伝説となった。 『女王セミラミス』
4年後に王が親政を始めると、西方遠征のためにバビロニアの援助を得るため、バビロニアの神をアッシリアで祀ることを始めた。
ダマスクス王マリ(ベン・ハダド3世)およびフェニキア諸都市はアッシリアに貢納。ウラルトゥが強大化し、とくに王メヌアシュ(位;前810~?)がアッシリアに大きな脅威。
カルフの代官ベール・タルツィ・イルマの碑文によると、神ナブーのみを崇めようとする「唯一神信仰」の動きがあったらしい。
105.シャルマネセル 4世 (在位;前782~773)
106.アッシュール・ダン 3世 (在位;前772~755)
107.アッシュール・ニラニ 3世 (在位;前754~745)
ニラニ??? 3世??? アッシュールニラリ3世は別にいるしなあ・・・・。
108.ティグラト・ピレセル3世 Tiglath-pileserⅢ (在位;紀元前744年~紀元前727年/18年間)
(トゥクルティ・アパル・エシャラ)
王位簒奪者であったと考えられている。(王の碑文の中に父親の名前がないから)
即位後、地方行政制度を改革し、州の規模と総督の権限を縮小、都市の特権を廃止。
主として被征服民から成る国王常備軍を創設して、軍隊の強力化をはかる。 戦車の改造、攻城兵器の開発。
征服戦争の方針を改め、征服地の徹底破壊をおこなわずに出来るだけ被征服民のアッシリア領内への強制移住をさせるようにした。アッシリア領内の荒れ地の開拓をさせ、王室財政の安定に貢献させる意図。
前735年までに、北方の強国ウラルトゥの王シャルドゥリシュ2世と戦ってこれを制圧。 (その後ウラルトゥは北方のキンメリア人によって、滅亡)
シリアでは3年間アルバドを包囲して陥落させ、前738年までにダマスクスのラスンヌ、サムアルのパナンム、サマリアのメナヘム、などをむこうから降伏させた。
前734年、ユダのアハズ王の懇願を受けイスラエルに進軍、ラスンヌとイスラエルの王ペカと戦って殺し、大量の捕虜を得る。(ユダのバビロン捕囚) このユダヤ人王国同士の争いを「シリア・エフライム戦争」という。
さらにシリアのアラム人の王国とバビロニアを破って属領とし、さらに南方のガザやアラビアまで遠征して、ベドウィンとも戦った。
進取の気風に富んだやり手の人物で、農民や商人を慈しんだと言われる。
旧約聖書では「プル」(ピレセルを短縮した、バビロニアによる蔑称)とも記されている。 そのあとティグラトピレセルという名前でも登場するので知らなかったら、別人かとも思うね。
109.シャルマネセル 5世 (在位;前726~722)
父王が死ぬやいなやイスラエル王が態度を変えて反抗しだしたため、シャルマネセルは怒り狂ってイスラエルに攻め込み、王ホシュアを捕らえ、首都サマリアを包囲し、ついにイスラエル王国は滅亡した。 しかし、旧約聖書にはサマリアを陥落させたのはシャルマネセルと記されているが、史実ではそれをおこなったのはサルゴン2世である。
≪サルゴン王朝≫110.サルゴン2世 (シャル・キン) (在位;前721~705/16年間)
かつて、この王は王位簒奪者であったと考えられていたが (←この王の碑文に父親の名前がないため)、しかし近年ではティグラトピレセル3世となんらかの血縁があり、シャルマネセル5世とは兄弟だった可能性もある、と考えられているのだそうだ。
即位後、首都カルフを棄て、新たに新都ドゥル・シャルキン(「サルゴンの砦」、現在のコルサバード)に遷都。
ティグラトピレセルが農民・商人などの市民を重視したのに対して、サルゴンは神官たちの歓心を買うことに努めた。即位直後の、王に対するシリア・イスラエルの反乱に対し、ふたたび難なく鎮圧。
前721年、バビロニア王メロダク・バラダン2世(カルデア部族の首領)の独立。; 東方のエラム人がバビロニアを支援。 前709年、サルゴンは苦戦の末、バビロンを陥落させるが、バビロン王は行方知れずに。
アナトリア方面 ; フリュギア人の王ミダスとの戦い ; 前709年に北方のキンメリア人に対抗するために和睦。
対ウラルトゥ ; 苦戦。 アナトリア諸都市とウラルトゥが同盟してアッシリアに当たる。
サルゴンはウラルトゥ戦役のさなかに死去。
111.センナケリブ(サンナケリブ、シン・アヘ・エリバ) (在位;前704~681/23年間)
「シン・アヘ・エリバ(センナケリブ)」とは、「月の神シンが(死んだ)兄弟たち(複数形)の代わりを与えてくれた」の意。
皇太子時代からめざましい戦功をあげ、才能ある若者だったが、父に似ず我儘で無鉄砲だった。
先王の都;ドゥル・シャルキンを廃棄し、あらたにニネヴェに新王宮を建設。
バビロニア ; メロダク・バラダンの復活。 アッシリアの代替わりを機に挙兵。センナケリブはバビロニアに遠征。 メロダク・バラダンはまたも逃亡し、行方知れずに。バビロニア王家のベール・イプニを傀儡としてバビロニア王としたが、やがて反逆したのでこれを討ち、今度は嫡子アッシュール・ナディン・シュムをバビロニア王とする。西方 ; シリアのフェニキア諸都市がエジプトの援助を受けて反逆したため、これを征討。
前689年、バビロニアのムシェジブ・マルドゥクがエラム王ウンマン・メナヌと計って挙兵。 アッシリア人バビロニア王アッシュール・ナディン・シュムはエラムの王都に連れ去られ、消息不明に。
ハルレの戦い ; センナケリブはバビロニア・エラムの連合軍を散々に打ち破る。
前689年、バビロンの大破壊。 バビロン史上最大の破壊。
イスラエル ; ユダ王国の王ヒゼキアがシリアと通じたため、ラキシュの戦いで破る。 さらにエルサレムを包囲。旧約聖書のなかにあるエルサレム包囲の記述によると、アッシリア軍は18万5千の大軍でエルサレムを包囲したが、ヤハウェの使いによって撃たれたため、翌朝にはすべて死体となっていたため、センナケリブは軍を撤退させた、と。 真偽はわからない。建設・治水工事をつぎつぎとおこない、「センナケリブ運河」を建設し、業績を上げる。 宗教政策 ; いろいろやったらしい。 省略。
後継者問題 ; 長子アッシュール・ナディン・シュムがバビロニア戦のさなかに消息不明になってしまったため、代わって末子エサルハドンを後継者に決定したが、これが他の王子たちの反感を買い、王は息子たちの手によって暗殺された。 これもまた、トゥクルティ・ニヌルタの時と同じく、バビロン破壊の時に持ち去ったマルドゥク神像の祟り、と噂される。
112.エサルハドン(アッシュール・アヘ・イディン) (在位;前680~669/11年間)
父王が兄弟たちに殺害されたので、エサルハドンはあわてて首都を脱出し、小アジアに潜伏、約1年半かけて兄たちの叛乱を鎮圧。
父王が破壊政策を続けて各地の反乱を招いたことを教訓に、バビロンの復興と帝国の再建に努める。
「大法官の制度」; 宰相として努めるが、一番重要な役割は、王のために帝国各地の情報を収集すること。
キンメリア人が南下してきたので、軍をおこしてこれを阻んだが、敗走する敵を追うことはしなかった。
西方のティルスを包囲したが、力攻めで勝利を急ぐのではなく、持久戦でもって陥落するのを待った。
エジプト遠征 ; シリアとイスラエルが繰り返し反乱を起こすのは、これを支援するエジプトがあるからだと考えた王は、前671年、大軍を率いてエジプトに侵攻。 メンフィスにいたエチオピア朝の王タハルカと戦ってこれを破り、敗走するタハルカを追って、テーベまで攻め上がった。しかし、遠隔地エジプトを支配するのはむずかしく、エサルハドンがアッシリアに帰ると反乱を起こしたため、再度大軍を率いて討伐に向かったが、その途上で死去した。
自分自身が病弱だったため、宗教問題に大きな関心を持っていた。 ・・・天文学者、占い師、予言者を重用。彼らが「いま王の運勢が悪い」と告げると、王はみずから「退位」し、「代理王」を立てて、自分は「農夫」と名乗った。 「農夫」といいながらある程度までの政治はおこない、一定期間が過ぎると「代理王」は王の代わりに殺害され、「王」として殺害された。 そして「農夫」はふたたび王に戻った。
後継者問題 ; 父王の失敗と兄たちの反乱を見たのに関わらず、エサルハドンは長子シャムシ・シュム・ウキンを後継者とはせず、嫡子ではないアッシュールバニパルを後継者と定めた。 ただしこのことに対し、部下たちが不満を持たぬように、王はくりかえし皇太子アッシュールバニパルに対する恭順を示す誓約書を作成し、おおくのその誓約の石版が現存しているという。 それ意外にも、エサルハドンは多くの場面で大量の契約書を作成させる王だった。
113.アッシュール・バニパル Aššurbanipal (在位;紀元前668~紀元前627/41年間)
アッシュール・バーン・アプリ Aššur-bāni-apli (「アッシュール神は後継者を賜る」の意)、ギリシャ語名:サルダナパル Sardanapalos。
おそらくエサルハドンの4男だろうとされる。
エジプト遠征中に病死したエサルハドンの遺言により即位。アッシリア帝国の最大版図を実現した。
≪即位前のアッシュールバニパル≫
≪即位直後の諸戦争≫
父帝が死去すると、アッシュールバニパルは即座に首都ニネヴェでアッシリア王に即位。その一年後にシャマシュ・シュム・ウキンがバビロンでバビロニア王となる。(この一年の間隔は、アッシュールバニパルが兄に対して優位性を示そうとしたものだと考えられている)。二人の即位式が無事に済むと、帝国は本格的なエジプト遠征を再開した。
継承に際してアッシュールバニパルは軍を一旦エジプトから撤退させており、その隙をついて、テーベにいたエジプト・ヌビア王朝(第25王朝)のタハルカ王がメンフィスまで進出してきた。紀元前667年にエジプト国境に達したアッシュールバニパル軍はたやすくメンフィスを奪回。恭順した諸侯のうち、ニネヴェの滞在歴も長かったサイス王ネコ1世をエジプトの太守(ファラオとも)とした。
クシュのナパタまで退いたタハルカ王は王位を甥のタヌトアメンに譲る。タヌトアメン王はアッシリア軍が東に帰った隙を突いて再びメンフィスに侵攻し、アッシュールバニパルは紀元前666年に再度エジプト遠征軍を起こす。各地で激戦が起こり紀元前665年にネコ1世がデルタ地帯で戦死。アッシリア軍は紀元前663年にテーベまで攻め込み、タヌトアメン王はヌビア(クシュ)に逃亡(第25王朝の終焉)、これまでテーベを堅く守っていたメンチュエムハトは降服した。アッシュールバニパルはネコの子プサメティクを全エジプトの王とした(エジプト第26王朝)。
≪兄弟の戦争≫
かつて自身が継承紛争に悩んだエサルハドン帝が、後継決定の誓約儀礼を大々的に開催したのは、彼の死の3年前である紀元前672年である。(カルフ(ニムルド)の「王座の間」の発掘現場から、メディアの諸侯たちによる誓約の粘土板が9通1955年に発見されている)。エサルハドンはバビロニア王を兼ねていたが、任命に際して彼は敢えてアッシリア王とバビロニア王を分離することにした。多くの息子たちのうち、長子ではないアッシュールバニパルがアッシリア王、能力的には優れているとされていたシャマシュ・シュム・ウキンがバビロニア王とされた。慣例的にシャマシュ・シュム・ウキンの方が兄とされ、彼が長兄であり二人は異母兄弟とされるが、実はその証拠は無い。同母兄弟だった可能性もある。ただしこの決定の背後には「シャマシュ・シュム・ウキンの母がバビロニアの王族であり、アッシュールバニパルの母がアムル系統だったから」という見解が強く、この決定には病弱のエサルハドン帝をずっと補佐していた太母后ナキア(ザクトゥ)の関与が強いともされる。
≪アッシュールバニパルの大図書館≫
≪アッシュールバニパルの死≫
≪文字禍≫
≪アッシュールバニパルの焔≫
≪滅亡へ・・・≫
114.アッシュール・エテル・イラニ (在位;前627~624)
宰相(宦官)シン・シュム・リシルによって、王位を奪われる。
115.シン・シュム・リシル (在位;前623?)
116.シン・シャル・イシュクン (在位;前623~612)
アッシュールバニパルの息子。 前王を追い払って王位を回復。
北方のスキタイ人に悩まされていたが、東方のメディア王国の王キュアクサレス2世が、このスキタイ人を打ち破る。ところがこのメディア王が、刃を返してバビロニア王ナボポラッサルとくんでアッシリアを攻めてきたため、シン・シャル・イシュクンはこれと戦ったが、首都ニネヴェを包囲され、ついに陥落。 王は戦死した。
117.アッシュール・ウバリト 2世 (在位;前612~?)
首都ニネヴェが陥落すると、アッシリアの残党は西方の都市ハランに逃れ、アッシュールウバリトを旗頭に、エジプトに援助を求めながら抵抗を試みたが、エジプトの援軍は途中イスラエルで撃破され、援助は届かず、前609年にアッシリアの勢力は撃滅された。
≪一般的なアッシリア王名表≫
この頁の王名表は元になった物が中央公論社・刊『人類の起源と古代オリエント』(1998年)に感銘を受け、足りない所を独自の推測を混ぜて作ったものであるのですが、その後出されたさまざまな王名表ではかなり食い違っているものがあります。とくにWikipedia等で採用されている王名順も示しておきます。
1.トゥディヤ 2.アダム 3.ヤンギ 4.サフラム 5.ハルハル 6.マンダル 7.イムツ 8.ハルツ 9.ディダヌ 10.ハヌ 11.ズアブ 12.ヌアブ 13.アバズ 14.ベル 15.アザラス 16.ウシュピア 17.アピアシャル 18.ハレ 19.サマヌ 20.ハヤヌ 21.イル・メル 22.ヤクメシ 23.ヤクメニ 24.ヤズクル・イル 25.イラ・カブカブ 26.アミヌ 27.スリリ 28.キキヤ 29.アキヤ 30.プズル・アッシュール1世 31.シャリム・アフム 32.イル・シュマ 33.エリシュム1世 34.イクヌム 35.サルゴン1世 36.プズル・アッシュール2世 37.ナラム・シン 38.エリシュム2世
39.シャムシ・アダド1世 40.イシュメ・ダガン1世 41.アッシュール・ドゥグル 42.アッシュール・アプラ・イディ 43.ナツィル・シン 44.イプキ・イシュタル 45.アダド・サルル 46.アダシ 48.ベル・バニ 49.リバヤ 50.シャルマ・アダド1世 51.イプタル・シン 52.バザヤ 53.ルラヤ 54.シュ・ニヌヤ 55.シャルマ・アダド2世 56.エリシュム3世 57.シャムシ・アダド2世 58.イシュメ・ダガン2世 59.シャムシ・アダド3世 60.アッシュール・ニラリ1世 61.プズル・アッシュール3世 62.エンリル・ナツィル1世 63.ヌル・イリ 64.アッシュール・シャドゥニ 65.アッシュール・ラビ1世 66.アッシュール・ナディン・アヘ1世 67.エンリル・ナツィル2世 68.アッシュール・ニラリ2世 69.アッシュール・ベル・ニシシュ 70.アッシュール・レム・ニシシュ 71.アッシュール・ナディン・アヘ2世 72.エリバ・アダド1世
73.アッシュールウバリト1世 74.エンリルニラリ 75.アリクデンイリ 76.アダドニラリ1世 77.シャルマネセル1世 78.トゥクルティニヌルタ1世 79.アッシュールナディンアプリ 80.アッシュールニラリ3世 81.エンリルクドゥリウスル 82.ニヌルタアピルエクル 83.アッシュールダン1世 84.ニヌルタトゥクルティアッシュール 85.ムタッキルヌスク 86.アッシュールレシュイシ1世
87.ティグラトピレセル1世 88.アシャリドアピルエクル 89.アッシュールベルカラ 90.エリバアダド2世 91.シャムシアダド4世 92.アッシュールナシルパル1世 93.シャルマネセル2世 94.アッシュールニラリ4世 95.アッシュールラビ2世 96.アッシュールレシュイシ2世 97.ティグラトピレセル2世 98.アッシュールダン2世 99.アダドニラリ2世 100.トゥクルティニヌルタ2世 101.アッシュールナシルパル2世 102.シャルマネセル3世 103.シャムシアダド5世 104.アダドニラリ3世 105.シャルマネセル4世 106.アッシュールダン3世 107.アッシュールニラリ5世 108.ティグラトピレセル3世 109.シャルマネセル5世
110.サルゴン2世 111.センナケリブ 112.エサルハドン 113.アッシュールバニパル
114.アッシュール・エティル・イラニ 115.シン・シュム・イシュル 116.シン・シャル・イシュクン 117.アッシュール・ウバリト2世
ああ、アッシリア!
私が高校生だった頃からこの帝国に入れあげている理由は、なんといっても帝王たちの「名前」の響きの美しさにある、といってもいいでしょう。 「アダトニラリ」「ティグラトピレセル」「アッシュールナシルパル」「シャルマネセル」「センナケリブ」「エサルハドン」。。。。。 ・・・・ ああ、なんて美しい。
一方で「ギルガメシュ」だとか「ハンムラピ」だとか「カダシュマンハルベ」とか「トトメス」だとか「ハットゥシリ」だとか「メロダクバラダン」だとか「ネブカドネザル」とか。。。。。 他地域の王たちの名は、なんと濁々しいことか。
え? どちらも同じに聞こえるですか?? うわはははははは。およそ1400年間も連綿とその王国が栄え続けたこと、も驚きです。
1400年ですよ、1400年。 3回も長期にわたる衰退期がありながら、ひとつの民族が同じ王朝を名乗り続ける。 国の性質もほとんど変わらない。 こんな国の例は他にはありません。
しかし、
それと同時に、この大帝国の帝王たちには、卓越した「戦争王」がとても多い。というのも私の関心のもとでした。 アッシリアというと、「戦争王国」として有名ですからね。・・・・ ところが、こうして一覧にしてみると、そうでもないですね。 特筆するに足る「王」(一覧では名前に色が付いている王)を数えてみても、わずか13名なんですよね。 117人のうちの。
しかし言い換えれば、この13人の人物によって、この帝国の名は永遠に人類の歴史の中に輝き続けることになるわけで。「王名表」を眺めてみると、この117人の名前には、幅広いバリエーションがあって驚きます。
「アッシリア風の」名前というのはひととおり指摘出来ますが、アッシリア風でありながらパターンから外れているもの、なぜか明らかにバビロニア風なもの、それ意外のもの、いろいろあります。そのなかで、さすが「神の国」アッシリア。 神々の名に由来する名が一番多いので、一応、神々の名と、その他の名前の要素となっている言葉の意味を、挙げておこうと思います。アッシュール ・・・ アッシュール市の市神。 アッシリアの守護神。 戦闘神。
エンリル ・・・ シュメールの天候神。 バビロニア、アッカド、アッシリアなどで広く信仰される。
アダド ・・・ 天候神。 稲妻と雄牛で象徴される。
ニヌルタ ・・・ 戦闘神。 獅子で表現される。
トゥクルティ ・・・ ????
ティグラト ・・・ って、きっと「ティグリス河」の神格化されたものに違いない(と勝手に)思っていましたが、ティグラトピレセルの正式名は「トゥクルティ・アパル・エシャラ」なそうなので、上の「トゥクルティ」なのだということが判明。 なぁんだ。
シャマシュ ・・・ バビロニアの太陽神。 冥府の神でもある。 「シャムシアダド」の「シャムシ」とも関係あるか? (ないかも)
アヘ ・・・ 「兄弟」の意。アプリ ・・・ じつはこれが一番知りたい。 なんだろ? なしるぱる、ばなぱる・・・参考までに
「サルゴン」=確固たる王 シャル= ”王”
「ティグラトピレセル」=私の信頼する人はエサラの息子。 エサラ???
「シャルマネセル」=シュルマン神は指導者である。
王名表を作ってみて思ったのですが、実際に業績を列挙していったのですが、あまりにも部族・地域名を表す固有名詞が多すぎて、混乱しますよね。 実際に地図を見て確認しなかせらこれをみると、この帝国が拡大の様が見られて、その巧妙さと歴史の流れが感じられて感嘆するはずなのですが、なかなかそこまで行きませんよね。 今後、それがわかるようにこの王名表を作り直していくのが、わたしの課題です。
また、王名表として王名を列挙するだけでは、この偉大な帝国の特異性は、全然表現できません。じっさい、アッシリアは幾多の民族、王国が輩出したメソポタミアの中でも、一、二を争うぐらいの異常な民族です。 他の征服王朝と比べて、あんなに周辺地域を荒らし回り、各地の金銀財宝、人材を自国に大量に持ち帰りながら、最初から最後までアッシリアはアッシリアなのは、このアッシリア民族という民族の中に、最初からアッシリアという国を規定する、一貫した規範があったからです。 これは、アッシリアを守護するアッシュールの神が理由だった、と書いてある本もあります。
そして、このように表にしてみると、アッシリアという国の中で「王」が絶対的な、超越的な権力を持っていた、と受け取られると思うのですが、実際にはそれはあまり正しくありません。王はずっと「王(神アッシュール)の代行者(副王)」と名乗っていて、名の通り、宗教的な権威を受け持つ、と考えられていました。 一方で、アッシリアの中で「世俗的な権力の代表者」として『リンム職』というのがあって、アッシリアでは一貫して、王とは別に、市民の中から選ばれていました。 (まあ王の権力が強大化してからはこれはなかば名目的なものになり、最初は公正に市民の中から毎年クジで選ばれていたのに、のちには序列でもってリンムが選ばれるようになり、また70代エンリルニラリ以降は、慣例として王の治世初年だけは王がリンムを兼任するようになりますが)、
さらに王がなにかをしようとしたときは、アッシュール在住の族長(貴族)たちの承認を受けなければならなかったのです。 (後期の王たちが次々と新都を造営したのは、伝統的な勢力を忌避しようとしたからだとされる)
それなのに、一番重要なのは、業績を列挙してみると、(皇位継承争いは別にして)王が自国の市民、貴族たちと衝突した、という記述はまったくありません。 たとえば専制的なカエサルやローマ皇帝たちが、元老院や軍隊と衝突し続けたことと、くらべてみてください。最後に、
やっぱり、名前が不明な王が20名もいるのが気分悪いですなあ。 きっと王名表自体のその部分が失われているのでしょう。多分、名前が見えないアッシュールナシルパル1世とシャルマネセル2世(とアッシュールニラニ1世と2世????)は失われた中に入っているんでしょうなぁ・・・
参考文献
『世界の歴史1 人類の起源と古代オリエント』 中央公論社 著者;アッシリアの部分は渡辺和子 1998年 ¥2524
これが今、手軽に手に入る本の中では世界一くわしい本。
アッシリア以外にも、他の国々のかなり詳細な王名表が付いていて、洪水のような名前の群れをながめてうっとり。 これ、初めて見たとき、滂沱の涙を流してしまいました(ウソ)。 でも、それだけでも、この本は買う価値があります。写真はカラーだし、地図も豊富だし、巻末資料文献(のタイトル)も豊富ですしね。
『西洋の歴史 〔古代・中世編〕』 ミネルヴァ書房 著者;アッシリアの部分は山本茂が監修。
『西洋史(1) 古代オリエント』 有斐閣新書 著者;アッシリアの部分は佐藤進 1980年 ¥950(本体)
『世界歴史事典15 ヌ~ヒコ』 平凡社 著者;「アッシリア」の項は大畠清 1933年 地方価格815圓 (^_^;
学校図書館で古くなりすぎて廃棄処分になるはずだったものを、むりやりいただいてきてしまったしろもの (^_^;
おもいっきり重宝しています。
この本が出たのは昭和28年なので、その後アッシリア学は大いに進展しているに違いなく、これもどの程度信用できるか心配なのですが、この本にしか載っていない情報も多くて。
センナケリブの項、「才能ある若者だったが、父に似ず我儘で無鉄砲だった」って、その根拠は。
『 生活の世界歴史1 古代オリエントの生活』 河出書房新社 アッシリアの部分の著者は佐藤進 1991年 ¥660
題名の通りですが、アッシリアに関わらずオリエント全体の古代生活が多くて、楽しい。
とくに、第3章に『選ばれてあることの恍惚と不安-エサルハドンの場合』という章があって、泣ける。この章は非常に情報が詳細で、ここに書いてあることを要約するだけで、エサルハドンだけでこのページの文字数を超えてしまいそうなほどだ。 とても楽しく読んだのだけれど、思い切ってこの本から得た情報は、すべて省略しました。
専門書は全然読んでないので分からないのだけど、アッシリアで出土した石版をすべて読めば、アッシリアの君主ひとりひとりについて、こういうふうに人物像に迫った記述が出来るのでしょうなあ。 ああ、悔しい。
わたしの作ったこのリストでは、一番触れたかったひとりひとりの性格について、全然触れていないですから。
文章中、『メソポタミアの三大女傑』と書かれてある部分に、注目。 その3人とは、アダドニラリ3世の母サンムラマト、エサルハドンの母ナキア、時代が下って新バビロニアの最後の王ナポニドスの母、アッダ=グッビ、なのだぞうだ。