表紙徳川家康の年表宗良親王の年表

浜松城前史





1459年(長禄3年)、今川範将が主導する「中遠一揆」。斯波氏の遠江支配に対する反乱。

1461年(寛正2年)、今川義忠が駿河守護職を継承。

1461年(寛正2年)8月2年、斯波松王丸が廃され、斯波義廉が斯波氏の家督を継承。越前・尾張・遠江の守護となる。

1461年(寛正2年)10月、遠江で反乱。

1463年(寛正4年)11月19日、斯波松王丸(7歳)は京都・相国寺で出家し宗成と名乗る。

1464年(寛正5年)、遠江今川氏の堀越治部少輔範将が死去(一説に戦死)して、堀越・河井・湊・中村が欠所(=没収)となる。

1465年(寛正6年)7月26日、今川範将の遺領を天野宮内少輔が継いで代官となることを幕府が許可する。これは遠江国内の反今川派の働きかけの結果であった。

1466年(文正元年)7月23日、「文正の政変」。斯波義廉が突然斯波氏宗家の家督を取り上げられる。

1466年(文正元年)8月25日、将軍・義政は越前・尾張・遠江守護職を斯波義敏に与え、斯波義廉を討つように命じる。細川勝元・山名宗全らは斯波義廉の側に立つ。

1466年(文正元年)9月6日、足利義視誅殺の計画がばれ、伊勢貞親が失脚する。

1474年(文明6年)、今川範将の子の今川貞延が今川義忠の助力を得て、見付端城を奪還する。

1475年(文明7年)、遠江今川家の堀越貞延が小夜中山の戦いで戦死。

1476年(文明8年)2月19日、今川義忠が塩貝坂で戦死

1501年(文亀元年)3月、斯波寛元と義雄が遠江に侵攻。

1511年(永正8年)10月、斯波義達が遠江に出陣。

1517年(永正14年)9月4日、今川軍に攻められ曳馬城落城。大河内定綱・巨海道綱は自害。