表紙舘山寺舘山寺についての書誌

東海道名所図会

 
名所図会1名所図会2 名所図会3

官山寺
「島風こゝろよく舟をおうこと、いとはやくして、(瀬戸から)三里あまりの海の上を、ひたはしりにはしりて、官山寺につく。こゝは湖の中へつとさし出でたる山崎にて、寺は山のなかばにあり。山のめぐり、赤き岩そばだてり。山は高くけわしきにあらねど、怪しかる岩かさなり、えもいえぬ松老いかゞまりて、唐絵見るようなり。人々その岩に尻うたぎし(=腰掛け)、その松に頬杖(つらづえ)つきていこい、ながめわたすに、例のあるじのおのこがいふ、まず奥のかたの山を引佐峠(いなさとうげ)といふ。引佐郡の山なればなり。麓を流るゝ水の江に入るを、引佐細江といへば、かたえの人のいふは、その山よりこの江の細く見ゆれば、細江とはいふものをとあらそふ。古歌多きところなり。」

ぺりかん社版
【新訂 日本名所図会集】2
新訂 東海道名所図会 [中] 〜尾張・三河・遠江・駿河 編〜
    監修 粕谷宏紀 原著 
秋里籬島
    ぺりかん社、2001年、2800円(税別)


江戸時代の中ごろには庶民の間にも旅行ブームが起こります。
それに対する旅行ガイド本もたくさん刊行されるようになり、江戸時代の後期になって、安永〜寛政の頃に一世を風靡したのが「名所図会(めいしょずえ)」というものだったそうです。これは一種のビジュアルガイド本で、イラストに一番力を入れていて、見ているだけで楽しくその場に行った気分になれるということで、人気を博したのでした。

その名所図会ブームをつくったのは秋里籬島(あきざと りとう)という、京都在住の読本作者・俳諧師です。
彼が安永9年(1790年)に刊行した『都名所図会』(全六巻、京都の745ヶ所の名所を紹介)が“図会ブーム”の嚆矢。秋里は俳諧師ですから名所を織り込んだ歌枕に詳しく、加えて大坂の絵師・竹原春朝斎による精細な鳥瞰図や場面図を大きな見開きで配したことが、読む者の心を奪ったのでした。
爆発的な人気を得て続けて『拾遺都名所図会』(天明7年・1787)『大和名所図会』(寛政3年・1791)『住吉名勝図会』(寛政7年・1795)『和泉名所図会』(寛政8年・1796)『摂津名所図会』(寛政8〜10年・1796〜98)『東海道名所図会』(寛政9年・1797)『近江名所図会』(寛政9年・1797)『都林泉名勝図会』(寛政11年・1799)『河内名所図会』(享和元年・1801)『木曽路名所図会』(文化2年・1805)発表。便乗して各社からも類似の名所図会がたくさん刊行されるようになっていましたが、秋里籬島のシリーズが他の作者によるものと最も大きく異なる点は、籬島の場合、出版社から多額の調査費と時間を与えられ(わお!)て、籬島自らが絵師を引き連れて各地を旅し、贅沢に綿密な現地調査をほどこした結果の文と絵ということでした。絵に描かれている場面は籬島が実際に目にした光景である為、江戸時代と現代の対象地の実際的な比較が可能ということです。

そうした視点から江戸時代の舘山寺と実際の舘山寺を見てみましょう。
『東海道名所図会』の舘山寺は、見開き3ページに渡って描かれています。堀江城の御陣山(現在の九重のあるあたり)から見た舘山だとされています。

興味深いポイント その1.
御陣山(絵師がそこに立っているので絵では見えない)から舘山はきわめて細い陸繋砂州でつながっている点。『遠江古蹟圖繪』では「中島」(=湖の中の島)と 記述してありますから、相違点であります。もちろん『東海道名所図会』の方が正しいと思います。この図によると、現在の山水館欣龍や浜乃木のある寺前通り は水の中で、サゴーロイヤルやサンビーチ、しぶき橋のあるあたりが「堀江村」で、そこには6軒の家が描き込まれています。ちなみに御陣山から舘山寺の距離は350mです。
舘山寺
その2.
山の下の方、舘山寺の本堂がある場所には松の木がたくさん描き込まれているのですが、山頂には岩や叢ばかりで、木は数本しか描かれていません。江戸時代には舘山はハゲ山だったのでしょうか? 現在とは全然違う。
なお、山の頂に近いところに書かれている文字は「秋葉」「富士見岩」「愛宕大権現」の3つ。現在まで残っているのは「富士見岩」のみですね。「秋葉山三尺坊」も「愛宕様」も昔は現在の位置とは違う山の上の方にあったのです。

その3.
『東海道名所図会』の絵には「西行岩」「大岩」「とさか岩」の名前は描かれていません。(この6年後に著された『遠江古蹟圖繪』には「児岩」「鸚鵡岩」「西行岩」「鏡岩」「足切り岩」「赤巖」が記されている)。
逆に、書かれているのは「富士見岩」「大穴(=穴大師)」「のぞき松」「赤巖」。
『遠江古蹟圖繪』にも現在の舘山寺にも無いのは「のぞき松」で、これがどんなものだったか気になりますね。
これを見るに、この絵を描いた絵師は向かいの山(御陣山)から舘山を眺めて絵を描いたが、実際に参拝をしていないのだろうということです。
赤巖は一個の巨大な岩のように描かれていますが、御陣山からは見えなかったはずです。
本文中にある「山は高くも険しくもないが、とんでもない岩かさだ。なんともいえぬ老松が生えていて唐絵のよう。人々はその岩に腰掛け、松に頬杖ついて憩い、眺め渡す」の「老松」と「岩」はどこにあったのでしょうか。山に登った人々の描写と考えるのが自然ですので、絵の中の富士見岩とその隣の松のことかな。





のぞきまつその4.
その「のぞき松」ですが、なんともふしぎな描かれ方をされています。下の湖面にむかって枝が下がっていて、水に浸かっている感じ? 巨松が折れたのか、こ ういう生え方の松なのかは分かりません。この枝の間から向こうの風景が覗けたのでしょうか。どちらにせよ、現在ではその跡すら残っていませんが、『東海道 名所図会』から40年後(天保5年・1834)に書かれた『遠淡海地志』には「覗の松は海へ這ふこと十余丈、下枝水中にては兎も波を走ること■るありさま、四季折々の風景、こゝに止まりぬ」と書かれています。

その5.
絵に描かれている建造物について。
「本堂」、「観音堂」、「寶樹房(宝樹庵)」。
このうち「観音堂」と「寶樹房」は現存しない建物です。
逆に、現在はある「縁結び地蔵」と「御玉様」はこの時代のこの絵にはないようです。
「寶樹房(ほうじゅぼう)」は『遠淡海地志』には「宝樹庵は黄檗宗初山宝林寺の末寺」と書かれているそうです。江戸時代にはこの小さい舘山の中にふたつの寺が並立していたんですね。(名前の通り小さな庵程度だったのでしょうが)舘山寺と初山宝林寺の関係が気になります。舘山寺の庇護者である大沢氏と初山宝林寺を菩提寺としている近藤氏は仲が悪かったはず。



「本堂」のある場所は現在と変わりませんが、屋根が藁葺きもしくは茅葺きです。
おそらく現在は愛宕神社の建っている地点にあるのが「観音堂」。
舘山寺に観音堂があったなどという記録は他のどこにもありませんが、この観音様は現在どこにいってしまったのでしょう。もしかして現在大聖観音像が山の上の方 にまつられてあるのは、昔あったというこの観音堂を受けたものかもしれませんね。もしくは現在の愛宕神社の右後方の岩の窪みに小さな聖観音が祀られていま すので、それかも。(よーーく見るとこの「岩陰の聖観音像」もきちんと図に描き込まれている。なんと細かい!!)。ひとつ注意しなければならないのは、よく見ると観音堂と書いてある場所には建物が2つ書かれているのですが、「観音堂」の文字は後ろの建物にかかっているようにも見えること。図の通り解釈するのなら、現在の「小さい方の聖観音」と「観音堂」は離れている。
「現在の愛宕神社のある場所は、昔は「阿弥陀堂」という建物だった」と一般にはされてますから、阿弥陀堂と観音堂の2つがあったのでしょう。豪華。
おそらく図で「愛宕大権現」と書かれているのは、現在大観音像が立っているあたりだと思います。
「寶樹房」は、現在のサゴーロイヤルがある地点か、もしくはそのちょっと上手にあったのでしょう。図には階段があるらしき石垣が描かれています。現在はサゴーロイヤルホテルがあるためこの地点を見ることができませんが、おそらく何らかの遺構は現存しているはずです。
『遠江古蹟圖繪』に出てきた「琴堂」は、この絵からはわかりません。
「明治時代の銅版画」と見比べてみてもおもしろいです。



『東海道名所図会』とは、イラストに重点においた名所紹介なのですが、編者が京都在住の人であり、また読者も京都在住の人々を想定しているせいか、場所によっては情報の量に濃淡があります。
残念ながら遠州地方は「情報の薄い土地」に分類されます。
取り上げられている名所を列挙してみますと(※天龍川以西で)、「白須賀湊」「汐見坂」「高師山」「橋本」「女谷」「風炉の井」「角避彦神社」「紅葉寺」「浜名川」「浜名橋」「荒井」「猪鼻湖神社」「源太山」「浜名湖」(官山寺についての文章はこの項の中にある)「今 切」「引佐細江」「舞阪」「馬郡観音堂」「音羽松」「若林二ツ堂」「賀茂祠」「甲江山鴨江寺」「浜松」「引間野」「諏訪明神社」「五社明神社」「三方原」 「犀ヶ崖」「大安寺」「行龕山龍禅寺」「颯々松」「青林山頭陀寺」「植松原」「蒲明神」「茅場」「京江戸行程同里」「天龍川」……
このうち、本書のメインである「イラスト入りの紹介」になっているのは、(※こっちは敢えて天竜川以東も数えると)

   ・「今切」
   ・「遠湖堀江村舘山寺」
   ・「引馬野(鷹狩りの図)
   ・「ざゞんざの松(足利義教公の富士行幸)
   ・「天竜川(船田入道、新田義貞を挟んで絶橋を飛び越ゆる)
   ・「熊野御前と重衡卿」
   ・「遠州桜ヶ池(法然上人と龍なる師)
   ・「志留波磯」
   ・「秋葉山社」
   ・「秋葉の茶店」
   ・「佐夜中山」
   ・「雲助」
   ・「菊川」
   ・「菊川宿(中御門宗行卿の歌)
   ・「阿波が岳、阿波波神社、無間山」
   ・「大井川」

の16箇所。三河国は11箇所、駿河国も20箇所ほどなので、遠江国が格段に少ないとは言えないのですが、遠江国の場合顕著に言えることは、歴史画・場面 画が多くて景色画が少ないといえることです。実際、浜松城や小国神社、奥山方広寺や可睡斎など、遠州には絵にして取り上げられるべき古社古蹟は多いはずな のに、それがなされていないのです。寺社で絵のあるのは「舘山寺」「秋葉山」「阿波波神社」の3つだけです。他国では中心となる古社の解説がこれでもか!というぐらいなされているので、その差異が目立つ。
そんな中で目立つのがやはりこの舘山寺。絵には「遠州にて風景第一の勝地なり」という文字が記されていますので、『遠江古蹟圖繪』の兵藤某同様、秋里籬島もまたこの景色のすばらしさに心奪われてしまったのだいうことがうかがい知れます。秋里以前にも舘山寺の名景は知られていたのでしょうが、『東海道名所図会』以降さらにこの土地の知名度が上がったことでしょう。現在の舘山寺は“浜松の奥座敷”としてホテル群と温泉の名前が高いのですが、温泉湧出以前の江戸時代の方が、遙かに舘山寺の名前は高かったのだ思われます。とはいえ、文章を読んだら秋里籬島はお寺の歴史の深さには全く関心を寄せることなく、ただただ景色のことばかりに賛嘆を寄せているのですが。

『東海道名所図会』ではイラストを寄せた絵師が30人ぐらいいたといいます。舘山寺のこの絵では絵師が珍しく署名をして絵師が明確に分かるはずなのです が、この字が読みづらい。4文字の漢字のうち上の2文字が「法橋」と読めますので、この人は「法橋中和であろう」と推察できます。法橋中和なら、東海道名 所図会の中心的画人のひとりです。(※参考(ただし、この署名の下2文字は、どうも「中和」とは読めませんので疑問は湧きます。「艸偃」と読める…)。『名 所図会』中の他の絵を見てみますと、筆致から「知立神社」「巖屋観音」「今切」「浜名橋」「秋葉山」「阿波ヶ岳」「清見寺」「興津川」「薩多峠」等は同じ 作者か同門の人の手によるものだとわかります。ただし、絵には署名のあるものと無いものがあり、また筆致の細やかなものと淡いものの差もありますので、全 てが厳密に同一絵師のものかと断言できるかとなると、厳しいものも出てきます。何らかのガイドラインがあっていろんな絵師が編集上統一技法を強いられた可 能性も考えられますし。
でも、それらのなかでもこの舘山寺の絵は、最も筆跡が厳密です。描き込みが際立っているのです。文を書いた秋里籬島と同様に、この絵を描いた絵師もまたこの景色に一番感銘を受けて創作意欲を刺激させられたであろうことは、疑うべくもありません。
のちの『遠江古蹟圖繪』に比してこの本での文章記述は簡潔すぎて、著者は土地の特性については全く書こうという気が起きなかったことまでわかるので、なおさら景色の美しさの描写が目立っているのです。

結論。「江戸時代には舘山寺が遠州で一番景色の綺麗なところだと讃えられていた」、これが『東海道名所図会』から分かることです。