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舘山寺について

秋葉山舘山寺


中嶺山 舘山寺(ちゅうれいざん かんざんじ)・・・曹洞宗
所在地=浜松市舘山寺町2- 231
本尊=福一満願虚空蔵菩薩(ふくいちまんがんこくぞうぼさつ)

 
当山は、平安時代の弘仁元年(810年)約千二百年前、真言宗として弘法大師により開創された。鎌倉時代の文治3年(1187年)兵火により消失したが、源頼朝公は自らの祈願所として諸堂を再建した。南北朝時代の貞治年間(1362〜1367年)、堀江城の城主として大沢氏が赴任し、その要請により城主の祈願所として、明治維新まで約五百年間守られてきた。江戸時代は徳川家康公より御朱印判物を賜り、東海の名刹として繁栄した。 明治3年(1830年)廃仏毀釈が発令されて廃寺となったが、明治23年(1890年)神仏分離令により村民が協力し、曹洞宗として再興した。火祭で有名な周智郡春野町の曹洞宗秋葉寺住職牧泰禅和尚を招請し、またその折り秋葉三尺坊を併せ祀り、真言宗の伝統を引き継ぎながら、曹洞宗の祈願所として今日に至っている。現在でも本堂に弘法大師が祀られている。

この地は昔、静岡県浜名郡北庄内村堀江と称して農漁業だけの寒村であったが、昭和40年(1965年)に浜松市に合併の折、中嶺山舘山寺の寺名をとり舘山寺町となる。山紫水明の景勝地で、浜名湖と温泉による観光地として昭和30年代後半より脚光を浴び、浜松市の奥座敷としてホテルが林立し、その繁栄がうかがわれる。

・・・『わが町文化誌 碧い湖と緑の半島・庄 内』(1995)
松の諸寺の中で、舘山寺は鴨江寺・龍譚寺・奥山方広寺に次ぐ知名度のあるお寺です。
舘山寺は大都市浜松きっての保養地としてその存在を知られており、舘山寺町の町名は古刹“舘山寺”によっているからです。しかしながら実際のところ、舘山寺というお寺は観光名所にしてはいささか小さすぎるお寺であります。来て見て歩いてみて、それほど楽しいお寺ではありません。このお寺のどこに価値があるというのでしょう。

実は!
 このお寺の高名はこのお寺自身の要因によるものではないのです。このお寺は名の知れたお寺でありながら、観光目的以外でお寺を訪れる人が少ない為に(※世のほとんどのお寺は観光よりももっと大事な仕事をたくさん持っています)大きなお寺となる必要が無かったのです。
中嶺山舘山寺というお寺の一番の魅力は「景勝地にあるから」で、決して「一般の人」が「一般の目的」(=墓参)で訪れるようなお寺ではありません。また、「文化的・歴史的な関心から見に来るようなお寺」でもありません。せいぜい温泉探訪の折にふらりと訪れた湯治客が“湯聖”「弘法大師」の名前を聞いて、「あら、こんなところにも」と、ほんのちょっと興味を湧かせるぐらいなところでしょう。弘法大師伝説は全国いたるところにはびこっているのです。お寺そのものに価値があったのなら、弘法大師がここでもっとめざましい偉業をしていたのなら、このお寺はもっともっと大きくなっていたでしょう。でも、弘法大師はこの舘山寺で何もしませんでしたし、役行者も西行法師も源頼朝もしかりです。今も昔も舘山寺温泉の一番の観光資源は「景色」で、ようやく60年前に地元の人たちの熱心な努力により、「温泉」が加わりました。かんざんじ温泉の魅力は、決してこのお寺にはありません。
観光地の中核であるものとされながら、観光資源として大きなものになりえないという矛盾がこのお寺にはあります。

当のお寺は自分自身を「とても歴史のあるお寺」だと謳っています。
曰く「弘法大師が開創し」、「弘法大師が修行した洞窟(穴大師)があり」、「西行法師が訪れたこともあり」、「源頼朝やコ川家康が関わったこともあり」、「明治の動乱の影響を色濃く受け」、「山頂の大観音は今でも篤い尊崇を受け」、「縁結び地蔵は恋愛のパワースポットである」と。
だが、それらのひとつひとつの出来事について詳細に語られることはありません。
「舘山寺の歴史」について本で調べようとすると、あまりに記されている事が少なくて困ってしまいます。
左の文章は、平成7年に庄内公民館が編集した地誌の中にある「舘山寺」の紹介文と、境内にある案内板の文章です。なんと漠然とした文章でしょう。現地案内板の方が読んでて面白いのです が(それはお寺独自の主張および願望がわずかに込められた文章だからです)、実 のところ上のピンク色の簡潔な文章程度の内容が一般的に本などに書かれている内容で、図書館で調べようと思っても行ってもこれ以上の情報が得られることは ほとんどない。舘山寺は 「浜名湖一の観光スポットのひとつ」なのですが、実は歴史的な細かいところのほとんど隠されているお寺なのです。
お寺自身が「舘山寺は何度か戦乱に巻き込まれた」と言っています。その折りに貴重な史料が失われてしまったのかもしれません。あるいは寺伝などが残ってい るのかもしれませんが、お寺は独自のホームページ等を作ってませんし、お寺によって発表された寺史などがあるわけでもありませんので現地の案内板以上のこ ともわかりません。現地の観光協会のサイトに載っている解説もとても簡潔なものですし、浜松で歴史の本をたくさん書いている神谷昌志氏や御手洗清氏も、御本の中で(穴大師の伝説や古写真について触れることはあっても)歴史的な舘山寺についてほとんど触れることをしなかった。
実は舘山寺は、なぞにいっぱい包まれているお寺なのです。

舘山寺の何がナゾなのか。
それを列挙してみましょう。


  (1).本当に弘法大師が建てたのか?

  (2).本尊の「福一満願虚空蔵菩薩」とはなにか?

  (3).本当に源頼朝が関わっているのか?

  (4).なぜ「檀家の無い寺」なのか?

  (5).昔の寺域はどうなっていたか?

  (6).「中嶺山」とはどういう意味?

  (7).中国蘇州「寒山寺」との関わり。

  (8).江戸時代の舘山寺の評判

  (9).「穴大師」の不思議。

  (10).「縁結び地蔵」のナゾ。

  (11).愛宕神社の由来。

  (12).「奥の院」とは

  (13).「舘山八景」について

  (14).廃仏毀釈で「廃寺」となった理由。

  (15).廃寺にされていた間、どういうことが起こっていたか。




・・・結局のところ、舘山寺はそれなりにささやかな魅力のあるお寺であったのですが、ここ百年ぐらいの間に人によっていろいろとごてごてとしたものを付けられ、いびつなスポットになっていったのだ、というおはなし。



★参考できるサイトさん★
『珍寺大道 中』〜舘山寺〜
境内にある説明看板文
曹洞宗 秋葉山舘山寺


・平安時代弘仁元年(810年)、弘法大師が高野山より仏道行脚の際、舘山を訪れて当地において修行し、その際に開創。旅する人々の心を清める寺として、山紫水明のこの地を選んだといわれている。
・鎌倉時代の文治3年(1187年)、兵火により焼失したが、源頼朝公がこの地を訪れ、道中安全・武運長久の祈願寺として諸堂を再建した。(頼朝の建立した諸堂や寺宝は元中元年(1384 年)に再び兵火により焼失)
・南北朝時代の貞治年間(1362〜68年)、堀江城(遊園地パルパル・ホテル九重付近)の 城主として当地に赴任した大沢氏の要請により、城主の祈願寺として、以後五百年間守られる。
・江戸時代の慶長3年(1589年)、徳川家康公により御朱印判物を賜り東海の名刹として繁栄した。
・明治3年(1870年)、新政府の神仏分離令(廃仏毀釈)により廃寺となる。
・明治23年(1890年)、再興が認められ、秋葉の火祭りで有名な秋葉山秋葉寺住職・牧泰禅和尚を招請し、秋葉山の出張所を持ってくるという 名目で再興した。その際に秋葉山三尺坊を舘山寺でも祀ることとなり、、山号も「中嶺山」を「秋葉山」に改め、真言宗の伝統を引き継ぎながら、曹洞宗の祈願寺として今日に至る。

  本尊・・・福一満願虚空蔵菩薩
    丑・寅の守り本尊で福徳と知恵を授けてくれる仏様
  鎮守・・・秋葉山三尺坊大権現(火防)
    当寺では毎年12月15日秋葉の火祭りが行われます
  縁結び堂(良縁成就)・・・明治より伝わる舘山 寺縁結び地蔵尊
    本堂左隣りの小さなお堂。
    「心に鍵」の当寺の伝統的な絵柄の絵馬で有名
  穴大師(眼病平癒・心願成就)・・・
    本堂より徒歩3分の山腹にある1500年前の横穴式古墳。
    弘法大師の自作の石像を安置。
    弘法大師が舘山寺開創の際、ここで21日間修行した
    眼病平癒の功徳あり。めのお大師さん。
  大観音(舘山寺聖観世音菩薩)・・・
    昭和10年建立。16メートル。
    美しい顔立ちとお姿の観音様。本堂より5分。