表紙舘山寺舘山寺についての書誌
遠江古蹟圖繪

館山の八景(巻之下; 景勝・伝承・古木・古蹟・山河・雑記)
荒井の宿(しゅく)より湖水の内一里隔てて中島に敷知郡(ふちぐん)入江村(※堀江村の誤り)と云ふ有り。島山有り。館山寺(※舘山寺の誤り)と云ふ真言の寺有り。境内の景色至つて勝れ、八景有りて近江八景を表す。その寺に八景の歌ならびに発句有り。余、寛政十年午(1798年)の秋金指の長瀬氏同船して彼の寺に至りて熟覧す。近江八景よりも勝れたるかと思ふばかりなり。往古はこの所の村人里なりしが、一夜の内に津波打ちて五村人家流れ、縊死する者多し。荒井の今切れこれなり。村里水入りてたちまち淵と成る。ゆゑに山々谷々島と成る。ゆゑに松島に似たる風景有り。気賀の関所の脇より小船に掉し、二里(※約7.8km)海上を乗りて館山に至る。この入江村より荒井までまた二里あり。この近辺の海に多し。また近所に岩附鮒とて鮒名産にて、味至つて好し。八景の事、二種有りて一決しがたし。明応七年戌午(1497年)、遠州今切出来たる由、年代記に見ゆ。またこの付近に礫(つぶて)石、弁天など云ふ所有り。珍しき所にて高名なる土地なり。館山寺に有りし八景発句有り、左に記す。

   館山の秋月   見渡せば浪にさやけし海の月
   今切の帰帆   長閑さや入江を帰る真帆片帆
   水神松の夜雨  はらはらと松の落葉や夜の雨
   間渡しの落雁  雲の間を遠く鳴きつれわたるかり
   赤巖の夕照   水鳥に入日こがるる岩根かな
   宿盧寺の晩鐘  人相のかねに散りけりやま桜
   琴堂の青嵐   琴の音をしらべ替へてや青嵐
   大草山の暮雪  見失ふ洲先の鷺や雪の暮

この寺の内、名所種々有り。●児(ちご)岩・・・往古この寺の児、岩上より身を投げ死したるよし。岩の上に小宮あり。児の霊を祀る。 ●鸚鵡(あうむ)岩・・・人の物云ふを響きに応ず。伊勢のあうむ岩のごとし。船にて行く。 ●西行岩・・・その形西行に似たり。 ●鏡岩・・・山中に有り。曇りて今は写らず。 ●足切岩・・・山の裾に有り、峭(しょう)なればなづく。 ●赤巖・・・活巖なり。赤き石の中に白き筋有り。奇石家これを翫(もてあそ)ぶ。
寺の門前一村人家有り。漁師ども住む家なり。赤岩は一町(※109mくらい)程が間、皆赤岩なり。
   



『遠江古蹟圖繪 全』
      再彰館 藤長庚編集
      修訂解説 神谷昌志
      明文出版社、1991年、2910円(税別)



神谷昌志著『浜松古跡図会』に載っている『圖繪』の中の「舘山寺八景」。
『遠江古蹟圖繪(とおとうみ こせき ずえ)』とは、江戸後期に掛川に住んでいた兵藤庄右衛門(?〜文政3年(1820)が享和3年(1803年)に完成させた本です。兵藤庄右衛門(ひょうどう しょうえもん)という人は掛川市連雀町にあった「三文字屋」という葛布を商う商家の主人でしたが、店の売り上げをほとんど趣味につぎ込むほどの数寄人で、「藤長庚(とう ちょうこう)」または「再彰館(さいしょうかん)」と名乗り、界隈では文化人(※とくに奇石・書画・箏琵琶・古銭に詳しい)として通っていたそうです。「寛政の三奇人」のひとりとして有名な蒲生君平とも交流があったといいます。

明文出版社刊の『遠江古蹟圖繪』(平成3年(1991年)で膨大な解説を施している神谷昌志氏によると、兵藤庄右衛門がこの本を著すきっかけとなったのは、寛政9年(1797年)に刊行された『東海道名所図会』を手に入れたことだったそうです。『古蹟圖繪』序文には「近来、大谷村内山真龍丈、および天中川近藤淡水丈なる者、遠津淡海の地誌数巻を撰む。また森天之宮の鈴木斎宮丈、当国近年の怪談を集め、集となす。いずれも開板もの(=出版されたもの)にあらず。余、この書を集めんと思ひ立ちてより五箇年以前、漸く当亥年までに百箇所と成りぬ。ゆゑに、前編三巻として圖する物ならし」と記しています。(※ただし、『遠江古蹟圖繪』も出版はされず、写本の形で世に広まったようです)


兵藤庄右衛門が掛川の人であったせいか、交通事情が今とは較べようも無い当時にあって彼が調べ回った場所は掛川・袋井周辺が多く、全116項目ある名所紹介のうち、天龍川を越えた浜松市域のものはわずか20項目しかありません。(これは仕方のないことでしょう)
でも、庄右衛門が寛政10年に舘山寺を実際に訪れて感銘を受けたことは確かなことで、『遠江古蹟圖繪』の「巻之下」が「景勝・伝承・古木・古蹟・山河」等を集めた物になっているのですが(※「巻之上」が「古城・名松・墓碑・巨巌・古塚・池泉」、「巻之中」が「霊山・霊場・古寺・古社・田遊・神事」)、景勝を集めた「巻之下」においてこの「館山八景」の項が筆頭に置かれています。さらに文章中にも「境内の景色至つて勝れ、八景有りて近江八景を表す。その寺に八景の歌ならびに発句有り。余、寛政十年午(1798年)の秋金指の長瀬氏同船して彼の寺に至りて熟覧す。近江八景よりも勝れたるかと思ふばかりなり」とありますから、彼が舘山寺に寄せた賛辞は最上のものであるばかりではなく、「遠州で最も景色が良い場所はここだぞ」と兵藤庄右衛門が位置づけしたと考えられます。(そもそも全116項目のなかで「景勝」を語っているのがここ一つしか無かったりして)



『東海道名所図会』の記載と合わせても、現在よりも江戸時代の方が旅人に対して遙かに舘山寺の名景色ぶりが有名だったのは確かなことでしょう。



だがしかし、舘山寺探求において、兵藤庄右衛門のこの文章は非常に重要な物です。
現在の「舘山寺紹介」と対比させてみると、大変興味深いことが多々あります。
それを列挙してみましょう。

まず第一に興味深いことは、この文章が「景勝」の分野に掲げられていて、決してこの寺を「古寺」であると言っていないことです。そもそも文章のメインが景勝で、寺ではありません。
『東海道名所図会』でもこの書でも「弘法大師の開創」について一切言っていないのです。この付近は「弘法大師云々」と云っている寺ばかりなので、あえて兵藤がそれを無視したとも考えられますが(彼の宗派が何だったのかは不明ですが)、現在の舘山寺の一番の見所であると言っていい「穴大師」についても、彼は全く触れていません。(「穴大師信仰」が生まれたのは明治になってからですから、当たり前といったらあたりまえのことです)

その2。
「湖水の内一里隔てて中島に」という表現。
今の舘山寺は舘山寺温泉の旅館街とつながった半島ですが、江戸時代には完全な島だったんですね。
兵藤庄右衛門自身が描いた挿絵もそれを証明しています。
ただ、「入江村がその中島にある」という表現になっているのがナゾなのですが。
(※戦国時代に堀江庄にあったという堀江城は現パルパルだから)

その3。
「この近辺の海に蜆多し。また近所に岩附鮒とて鮒名産にて、味至つて好し」
浜名湖といったらアサリじゃーん。でも江戸時代には舘山寺の名産は蜆だったのです。「浜名湖のシジミ」なんて見たことないよ。
(※ヤマトシジミの最適産卵塩分濃度は0.3〜1.8%だそうなのですが、シジミは塩分濃度の変化に比較的強いらしく、成貝の塩分耐性は0%〜3.0%。アサリよりも頑丈だそうです。現在の舘山寺付近の塩分濃度は2.8%ぐらい。ただ、一般的に「シジミは低塩湖にいる貝」で「アサリは海にいる貝」、現在の浜名湖では都田川河口でシジミがたくさん採れるそうです。浜名湖周辺の川にもいるそうです。…兵藤庄右衛門の頃は今と塩分濃度がかなり違ったのです)
参考までに、40年後に書かれた『遠淡海地志』には舘山寺の項で「ハマクリとるさまは世渡りといへどはかなし」と書かれています。舘山寺付近にはいろんな貝がいたんですね。
そして岩附鮒っ!? かんざんじ温泉も「牡蛎かば丼」とか言ってないで、こっちを復活させるべきだと思いますよ。(現在の浜名湖にフナなんていたらびっくりだっ。・・・「近所に」とあるので必ずしも湖の中で採れるフナとも限らないのですが、もしかしたらこれはフナに形の似ているキビレのことじゃないだろうか? キビレだったら今でも浜名湖の名産です)

キビレ フナ

・・・フナとキビレは大きさは全然違いますけどね。(左;キビレ 右;フナ)

その4。
「館山八景」の句について。
これは有名な「近江八景」の句に基づいたもので、兵藤庄右衛門の文章を見ても誰がいつ撰んだものか分からなく、もしかしたら庄右衛門自身が創ったものだという可能性だってないわけではありません。
が、現在の舘山寺でも「古蹟圖繪」に由来するこの「舘山八景」をアピールに使ってまして、幾箇所かに碑が建ててある。「〇〇八景」というのは実は日本全国に溢れるほどあって、残念ながら「舘山八景」は無名なものですが、それでも「元ネタ」にきっちりと当てはめているものは意外と少なく、舘山寺のコレはなかなか見事なものです。兵藤庄右衛門も絶賛してます。
個人的には「大草山の暮雪」、一年に一回しか観られないものですが、絶品です。
「琴堂の青嵐」の「琴堂」の場所は不明。
古い絵葉書等を検索すると「琴堂下の巌」とか「琴堂が浦」とかいうのが見つかりますので、本当にそんな堂があったのか、もしくは地名らしいです。調べてもさっぱり詳細が分かりませんが、地元の人はその場所を知っていると思う。


写真は絵葉書ショップ・ポケットブックスさんから無断借用。
どこだこれ?
琴堂を描いた古写真は何種類か別のサイトや本にもありますが、
神谷昌志氏の『浜松古跡図会』に「琴堂の青嵐」として紹介されている写真は
稚児ヶ岩のような… 琴堂ってそのあたり?


その5。
兵藤庄右衛門が記す「山中の名所」について。
「児岩」、「鸚鵡岩」、「西行岩」、「鏡岩」、「足切岩」、「赤巖」の6点が載っていますが、現在の舘山に残っているのは「稚児岩」、「西行岩」、「赤巖」の3つのみ。また、現在の舘山寺の地図と 見比べていただきたいのですが、現在の案内板にある「富士見岩」、「はなれ岩」、「祈願岩」、「とさか岩」、「大岩」等の名を庄右衛門は挙げていません。 江戸時代は「変な物に名前を付けるブーム」の時代で、現代に残っている名前の多くにこの頃にルーツを持っている物がかなりあるのですが、舘山寺に限っては 江戸時代に名前が挙げられているものと、現在のものとがこんなに食い違ってしまっていることは、興味深いことです。
鏡岩は文中にあるようにますます曇って今では分からなくなってしまったのでしょうし、(※舘山寺の伝説に「大昔、高貴な姫がここで顔を写して鏡代わりにしていた」というものがあります)、足切り岩もまた摩耗してしまったのかもしれません。
ただ、富士見岩は『東海道名所図会』に、鶏冠岩は『遠淡海地志』に記述がありますので、当時から知られていたはずであり、兵藤庄右衛門はわざとそれを記さなかったと思われます。
また「児岩」の説明に「舘山寺の小僧がこの岩から身を投げた」と書いてありますが、現在の舘山寺の伝説では「北条早雲が攻めてきたときに、舘山にあった佐田城主の堀江清泰が、自分の子を逃した場所」とより劇的な物に変化してしまっています。『圖繪』で記されている「岩の上の小さな宮」も現存してはいません。
同様に「西行岩」についても、兵藤が「西行法師が座っている姿に似ているだけの岩」と書いているのに、現在では「西行法師がここに来て数日間瞑想し「舘山の巌の松の苔むしろ〜〜」と歌った」と、いかにもな話に変化してしまっているのがもののあはれですね。


『遠江古蹟圖繪』のイラストについて。
この本は「図会」ですから、絵に一番の力を注いでいるのですが、その絵を描いているのは兵藤庄右衛門本人です。彼は本職の絵師ではありませんから、『東海道名所図会』の絵と較べるとあまり精緻な物で無く、ほほえましさすら感じさせるものであります。
しかしながらその絵をじっくり眺めると、兵藤庄右衛門が一番心を注いだのは、どこになにがあってそれがどうなっているかを配置や形状を絵で記録することであって、その意味ではこの本のイラストの表現は、とても価値があることが分かってきます。
残念ながら『遠江古蹟圖繪』は出版はされず、写本の形で世に伝わった物であります。なのでそのイラストも本毎に描き写されまたさらに描き写されたものであり、写本ごとにその細部が変わってしまっているようです。
私が持っている紹介本でも、舘山寺のイラストは構図は一緒ですが細部が違うものが、3種類ほど確認できます。
(ただし、違う絵でも全部、庄右衛門本人が描き写したものらしい)
『遠江古蹟圖繪』の原本は発見されていないそうです。



私が参照できた中で一番描写が精緻なのは、神谷昌志著『浜松古跡図会』(1987年)p.173に載っている写真。
同じ神谷昌志氏が1991年に刊行した詳解説版『遠江古蹟圖繪 全』は、かなり良質な写本だという「下石田神谷家所蔵本」を底本としているのですが、そこに載っている絵は4年前の『浜松古跡図会』のものと比べると、かなり簡単になったものです。

例えば、『浜松古跡図会』の方では、入江村と水神松・御陣山の向こう側にある地形が明確に切られていて、舘山が庄右衛門が文中に書いているように、完全な 島であるように描かれています。それが『遠江古蹟圖繪 全』の絵では御陣山のあたりは霧によって隠される形になっています。


『浜松古跡図絵』の図。


『遠江古蹟圖繪 全』の図

ここまで違うと、「上の絵は本当に兵藤庄右衛門の手になる物か」という疑問まで湧いてきますが、少なくともこれに書き込まれている字は『遠江古蹟圖繪 全』の兵藤の文字とよく似ています。
そして、ところどころ書かれている文字によって、今は知られぬ「アウム岩」、「カゝミ岩」がどこにあったのかも分かります。
よーーく見ると、「のぞき松」も描かれています。もう一本海の中に倒れ込んでいる別の木まで。
でも別の本のこの場所を見ると、「千貫札」という字が書かれていて… なんだそれ。

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