<表紙/浜名湖の魚/うなぎ/かつお/キビレ/ひらめ/とらふぐ/どうまん>
< 静岡県に鈴木さんはなぜ多いか /スズキ歴史館 >
夏の魚
-『食材魚貝大百科②』に所収-
すずきのウンチク
・学名の「Lateolabrax Japonicus」は、「日本の/隠れていた(latele)ヨーロッパシーバス(lablax)」の意。キュビエが命名(1828年)。
・「すずきの名前の由来」はたくさんの説がある。
・10年以上の寿命のある魚。
・生後1年で20~25cm、2年で30~35cm。3年で40~45cm。60cmになるには5年を要する。釣り人に「ランカー」と呼ばれるのは80cm以上のシーバスで、10歳を越えた個体であり、多くの場合その海域の「ヌシ」と言える存在である。公式記録で最大のスズキは126cm。(※ブラックバスのランカーサイズは50cm)
・「シーバス」という呼称の提唱者は釣りジャーナリストの西山徹。
・スズキは出世魚。厳密な意味で「出世魚」と名乗って良いのは「ブリ」「スズキ」「ボラ」だけだとされる。(※「コノシロ」は議論あり)
・各地のスズキの出世名
(一般) セイゴ(1~2年魚、25cmぐらい) → フッコ(3~4年魚、35cmほど) → スズキ(4年~、60cm以上)
(東京湾) コッパ → ハクラ → セイゴ → フッコ → スズキ
(浜名湖) セイゴ → マタカア → オオマタ → コチウ → チウイオ → オオチウ →オオモノ(オオモ)
セイゴ → マダカ → スズキ(60cm以上)
(関西)セイゴ(25cm前後) → ハネ(60cmまで) → スズキ(60cm以上)
(有明海)ハクラゴ(1年魚、20cmまで) → ハクラ(40cmまで) → ハネ(60cmまで) → ススキ(60cm以上)
・「マダカ」とは「スズキになるのはまだか」という意味
・「フッコ」は漢字で「福子」と書く。「コッパ」は「木っ葉」。「ハクラ」「ハネ」は不明。
「セイゴ」は中国もしくは出雲國の「松江」に由来しているともされる。(大言海)
・『和漢三才図会』(1713年)に「川スズキは脂が多くて味がよい。海スズキは脂が少なく味は淡い」という記述がある。川鱸がスズキで海鱸はヒラスズキのことだとされる。ヒラスズキは汽水や河川に入ることは決して無い。実際はヒラスズキの方が味が濃いとされ、スズキとヒラスズキのどちらを好むかは、人による。
・ヒラスズキに較べてスズキはひらたくないため「マルスズキ」と呼ばれることがよくある。
・日本のスズキのことを丸スズキと呼ぶのは俗称で、別の魚で「マルスズキ」という和名の魚がいる。オーストラリアやニュージーランドにいる「Kahawai」という魚。鈴木なのに河合。25年の寿命を持ち90cmになる。「Kahawai」はスズキ目マルスズキ科。(スズキはスズキ目スズキ科)。オセアニアのマルスズキは別名「東オーストラリアサーモン」とか「海トラウト」とか呼ばれる。身質はスズキと似てないような似てるような。味は全然違うらしい。マルスズキ科には4種の魚がいる。「カウアイ」というのはマオリ語で、学名は「Arripis trutta」。ヨハン・ラインホルト・フォースターが1801年に記載(彼は1798年に死去している)。
・冬に湾口付近(外洋に面した岩場)で産卵し、孵化した仔魚はまもなく湾奥のアマモ場等へ移動する。春夏になると汽水域や河川等へ、冬になると湾へ戻るが、2才を越えると(冬に)湾を出て沖合にも行くようになる。3才を越えると河川から沖合まで、活動範囲が非常に広くなる。
・冬には汽水域や河川ではスズキはほとんどとれない。
・スズキは湾を中心に定期的な季節移動をしていると考えられているが、調査のために標識を付けて岩手県で放流したスズキの成魚が、1年以内に青森県や福島県で捕獲されている。スズキの成魚の遊泳範囲は広い。
・利根川ではスズキは河口から100kmぐらいは普通に登る。
かつては大阪湾から琵琶湖までスズキがのぼることもあった。
・2010年に琵琶湖で60cmのシーバスが捕獲され話題になった。持ち込まれた滋賀県水産試験場では「本来琵琶湖にいてはいけない魚。放流されているとしたら問題」とコメントした。このスズキはおそらくタイリクスズキであったとされ、誰かによって放たれたものらしい。
・天ヶ瀬ダムのおかげで現在琵琶湖にはスズキはいないはずであるが、ネットには「琵琶湖のシーバス」の怪しい写真が一部にたくさんある。
スズキ以外にも琵琶湖は本来いないはずの生物が時折発見される謎の湖であるが、その大部分は違法に持ち込まれた物。
・「有明海のスズキ」は1997年に「マルスズキとタイリクスズキの混雑種」であることが明らかになった。ただしこの交雑は近年のことではなく、日本列島と中国大陸が陸続きになっていた1万年以上前に行われたことだという。ムツゴロウやワラスボやアゲマキ貝などと同じ特異な「大陸系遺存種」。有明海のスズキは生涯有明海から外洋に出ることがない。
・秋になって産卵のために沖の深い所へ向かうスズキを「落ち鱸」という。脂が多くなってうまい。
・宍道湖では10月に鳴る雷を「スズキ落とし」と呼んでいる。宍道湖のスズキはこの雷の音を聞くと湖から海へ移動するといわれる。
・スズキは夜に活発に活動するので、鱸漁は夜におこなう。昼間はあまり動かない魚。
・映像を見ると、野生の鱸でも普段は遊泳中の第一背鰭はペタンと垂れている。警戒中(?)のときに立つ(?)
・すずきの漁獲高が日本一なのは千葉県の船橋漁港。
・すずきは高級魚だが、高級魚なのに一時期を除いて安い。すずきが高値になるのは梅雨の時期。
・すずきが高級魚なのに安くなったのは昭和の中頃。水質悪化によって東京湾が汚れ、身が常に臭くなったからだと言われる。
・現在は東京湾の環境は改善して、美味しい食材としてふたたび注目され始めているし、釣り人には非常に人気がある。
・1973年(昭和48年)に日本の海のPCB汚染が問題化。福井県の敦賀港では著しい汚染が見られたため、敦賀湾産の魚介の喫食を禁止し、スズキの流通を制限した。汚染源だとされた東洋紡績敦賀工場に命じて4800尾のスズキを買い取らせ、同社敷地内にコンクリート詰めにした。
・PCB(ポリ塩化ビフェニル)は1968年(昭和43年)の「カネミ油症事件」で毒性が明らかとなった公害物質。これが体内に取り込まれると発疹・吹き出物・爪や口腔粘膜が赤黒くなる色素沈着・目やに・全身の倦怠感・嘔吐症状・爪の変形・関節の浮腫と関節痛・しびれ感・食欲不振・免疫の低下・肝機能障害などの症状があらわれ、化学的に分解されにくいために体内にとどまり続け、特にへその緒にたまりやすく胎児へも汚染しやすい物質であった。PCBの製造と使用は1970年代に完全禁止されている。
・現在でも東京湾や大阪湾のPCB等の残留公害物質の調査にスズキがよく用いられている。
・スズキの身にはなぜかアニサキスがほとんどいない。(※、と言った人でスズキでアニサキスにやられる人がたまにいる)
・「スズキの鰓洗い」…シーバスは釣られようとするとき、口を大きく開けながらジャンプして、首を激しく振りながら暴れて針を外そうとする。その姿がエラを豪快に洗っているように見えることから、「スズキの鰓あらい」といい、その死闘を経て釣る鱸は釣りの極味が抜群である。スズキには鰓にトゲがあるため、スズキが優雅に高邁にエラを洗うとき糸を切られることが稀によくある。(当魚が意思をもってそれをやっているかどうかは諸説あり)。
・白身魚なので熟成に向いていて、熟成によって劇的に味が変わる。一般的に3~5日ぐらいの熟成が最適とされているが、「スズキは釣り立てに限る」という釣り人もいる。
・ビタミンAの含有量が鰻に次ぐぐらいに特異的。高タンパク低脂肪。
・うなぎのビタミンAは100gあたり2400μg。すずきは100gに180μg。(※鰻がすごすぎるのです。クロマグロの赤身は83μg。鯛は11μg) μ=マイクロ=100万分の1。
・ビタミンAには目や皮膚の粘膜を健康に保ち、感染症(かぜとか)に対する抵抗力を高める作用がある
・スズキの皮の部分にはビタミンDが豊富
・すずきは刺身で食べるよりも「洗い」にすることの方が古来から一般的だった。
・魚の「スズキ」と名字の「鈴木」は全く関係がない。しかし名字としての「鱸」氏は「鈴木」一族のバリエーションのひとつ。
・「鱸」という名字が一番多いのは愛知県で、およそ120名。全国に600人ぐらいの「鱸さん」がいる。
・『平家物語』の平清盛の故事により、吉祥・昇運の魚とされる。
・スズキの骨は蜆塚遺跡からも出ている。
・『古事記』の「大国主の国譲り」より (※この話は日本書紀にはありません)
「「この葦原中國は、命の隨に𣪘に獻らむ。ただ僕が住所をば、天つ神の御子の天津日繼知らしめす。とだる(登陀流)天の御巣如して、底つ石根に宮柱ふとしり、高天の原に氷木たかしりて治めたまはば、僕は百足らず八十垌手に隱りて侍ひなむ。また僕が子等、百八十神は、すなはち八重事代主神、神の御尾前となりて仕え奉らば、違ふ神はあらじ。」とまをしき。かく白して、出雲國の多藝志の小濱に、天の御舎を造りて、水戸神の孫、櫛八玉神、膳夫となりて、天の御饗を獻りし時に、禱き白して、櫛八玉神、鵜に化りて、海の底に入り、底の赤土を昨ひ出でて、天の八十平瓮を作りて、海布の柄を鎌りて、燧臼に作り、海蒪の柄をもちて燧杵に作りて、火を鑽り出でて云ひしく、
この我が燧れる火は、高天の原には、神産巣火の御祖命の、とだる天の新巣の凝烟の、八拳垂るまで燒き擧げ、地の下は、底つ石根に燒き凝らして、栲繩の、千尋繩打ち延へ、釣せし海人、口大の尾翼鱸、さわさわ(佐和佐和)に、控き依せ騰げて、打竹の、とををとをを(登遠遠登遠遠)に天の眞魚昨、獻る。といひき。」
・『万葉集』には2つスズキの出る歌がある。
「荒栲藤江之浦尓鈴寸釣白水郎跡香将見旅去吾乎」---柿本人麻呂(羈旅歌8首のうちのひとつ)
(大意)藤江の浦でちょっとスズキを釣ってるんだけど、わたし漁師に見えてしまうかなあ。残念ながら私はただの旅人ですよ
鱸はこの頃は趣味で簡単に獲るような魚ではなかったのか。自分と漁師の世界を(蔑視して)別だとみなしているという解釈もある。
「荒栲の」…「藤」にかかる枕詞 「藤江の浦」…明石の地名で漁の名所。「白水郎」…「あま」と読む。白水は中国の長江河口の鄮県の地名。ここの男は水に潜ることが巧いことで知られた。
「鈴寸取海部之燭火外谷不見人故戀比日」---よみ人しらず (物に寄せて思ひを陳ぶる)
(大意)スズキを捕る漁師の舟の灯火のような、他からなかなか姿が見れぬような人に、わたくしこのごろ恋をしてしまったのです
この頃のスズキ漁は沖でするもので、河口付近でシーバスを釣るといったことは無かったのでしょうか
この人は相手の姿が見えないからかえって好きな気持ちをつのらせているんですね。
・『平家物語』(巻第一)の「鱸」の文章。(岩波文庫の「新体系本」)
「平家かやうに繁昌せられけるも、熊野権現の御利生とぞ聞こえし。其故は、古へ清盛公、いまだ安芸守たりし時、伊勢の海より、船にて熊野に参られけるに、おほきなる鱸の、船に躍り入たりけるを、先達申けるは、「是は権現の御利生なり。いそぎまゐるべし」と申ければ、清盛の給ひけるは、「昔周の武王の船にこそ、白魚は躍入たまりけるなれ。是吉事なり」とて、さばかり十戒をたもち、精進潔斎の道なれども、調味して、家子・侍共にくはせられけり。其故にや、吉事のみうちつゞいて、太政大臣まできはめ給へり。子孫の官途も、竜の雲に昇るよりは、猶すみやか也。九代の先蹤を越え給ふこそ目出けれ』
・源平闘諍録にはこの話があるが、源平盛衰記や一部の平家物語(屋代本や四部本)にはない。長門本では、清盛が手ずから調理して、すべての家の子・郎党にふるまっている。
・すずきは夏の魚だが、季語としては秋の季語。
・全国の「片身の鱸」の伝説
静岡県浜松市(富塚町権現谷)…徳川家康が関わる
静岡県熱海市(多吉山の三石の滝)…源頼朝が関わる
愛知県豊橋市(吉田城下)…漁師五郎が関わる
東京都品川区(東海寺)…沢庵和尚が関わる
・浜松の鱸谷の伝説
再彰館藤長庚・著『遠江古蹟圖繪』より(1803年(享和3年))
「浜松宿の町裏八町(=約880m)ほどの地に普済寺とて曹洞の禅寺有り。その後の山間に鱸谷とて有り。往古弘安三年庚辰(=1280年)、この渓流に大鱸住みて人を捕る由聞きければ、寺の開山和尚その鱸を驅りたまへば、その側の池へ飛び入り、以前のごとく人をとる。この池を不遣池と云ふ。池の端を通る人、鱸に見込まれ立ちすくみになり、歩行しがたしとなり、ゆゑになづく。ある時、池の端に葱を作り置きしが、夜になると何やらん出て葱を喰ひ、狸狐の業ならんと心得、打ち留めんと鳥銃へ二つ玉を込め待ち居たり。その夜また喰ひに来る所を鳥銃にて打ち殺す。大なる鱸、七尺余(=210cm)有り。今に残る。鱸谷にある傍木に書付あり。弘安三辰年より今亥まで五百二十五年になる。この開山和尚は知識なるよし。鱸谷も隠れなき事なり。俗説に非ず、慥かなる事の由、寺の僧物語なり。鱸には老いるに随ひ大魚有る物と云ひ伝ふ。その鱸、腹中より人の骸多く出でしとなむ」