<表紙浜名湖の魚うなぎすずきあじ/さば/さわら/ぼら/ひらめとらふぐ/あさり/まはぜ>
<カツオ節とソウダ節・サバ節等の違いについて>
春と秋の魚
-『食材魚貝大百科』に所収-

かつをのウンチク
かつおのフィギュア
・日本列島の太平洋側にいる大型回遊魚。黒潮に乗って南の海からやってくる。
日本海側で捕れるカツオは「迷いガツオ」と呼ばれるが、海洋の温暖化によってふつうに現在は日本海もカツオの回遊域となっているらしい。
・学名の「Katsuwonus(カツウォヌス) pelamis(ペラミス)」の「pelamis」は、「マグロの子供」という意味。リンネが1758年に命名。
・日本ではマグロとカツオは別の魚だが、欧米ではどちらも「tuna(ツナ)」であり、マグロとカツオは同じグループとみなされる。
・鰹はスズキ目サバ科マグロ族(Thunnini)のカツオ属(Katsuwonus)のカツオ。スマはマグロ族スマ属(Euthynnus)、ソウダガツオはマグロ族ソウダガツオ属(Auxis)なので「属」が違う。「マグロ」は黒鮪も南も目張も黄肌も鬢長も全部同じマグロ族の「マグロ属」(Thunnus)。歯鰹はハガツオ族のハガツオ属(Sarda)。真名ガツオはイボダイ亜目マナガツオ科マナガツオ属。
・カツオ属は一属一種。だがソウダガツオ等と区別するため本ガツオ・真ガツオなどという呼称がよくされる。
・ラテン語の「Tunnus」はギリシャ語の「急ぐ/飛び出す/張る」を表す「thynō」に由来している。
・カツオの英名は「Skipjack tuna」で、「Skipjack(スキップジャック)」は「水面をぴょんぴょん飛び跳ねる魚」の総称。魚ではないが「コメツキムシ」も「Skipjack」と呼ばれる。どうして「jack」なのかは不明だが、ジャックは男によくある名前なので、「~~するヤツ」という呼称だと思われる。海でよくスキップしてる奴。
・Wikipediaを見ると「Katsuwonus pelamis(Linaeus、1758)」と書いてあって、カツウォヌスの命名者がリンネであると読めると思うのですけど、リンネは日本のカツオなど見たことがなく、カツオを欧州に紹介したのはシーボルトとその協力者たちが編纂した『日本動物誌(ファウナ・ヤーポニカ)(魚類篇)(1842~50年、16分冊)で、本当の「カツウォヌス」の命名者は岸上鎌吉(きしのうえかまきち)である(1920年代?)。ただし岸上鎌吉の著名な業績でカツオについても包括的に詳細に述べたとされる『鯖型魚類の研究』は本にはなってないみたい。
慶賀魚図-カツオ
・シーボルトの日本研究が元になった『日本動物誌(ファウナ・ヤーポニカ)(ただしシーボルトは生物学に詳しくなかったので著述を他者に任せた)では、カツオの学名を「Thynnus pelamys」としている。おそらくこれがカツオもツナとなった大もと。『日本動物誌』のカツオの絵を描いたのは、長崎の出島出入り絵師だった川原慶賀(けいが)。彼はシーボルトとも親しかったが、シーボルトが日本退去したあと後任となったハインリヒ・ビュルゲルに依頼されて多数の絵を描き、それらはオランダへ送られた。
・ビュルゲル(ビュルガー)はオランダ政府に雇われてシーボルトの助手となるため日本に派遣された人物で、シーボルトの日本国外追放(1829年)後も、出島からオランダに大量の標本を船便で送った。カツオの標本も計4回送られたことが分かっている。これはシーボルトが弟子に対して言った「単に新しい物だけではなく、自然にあるもの全てを蒐集せよ」という教えに従ったものだとされる。
・日本のものと同じカツオは大西洋にもふつうにいるが、その産地は主に南大西洋で(マグロと違って)地中海にはいない。(地中海で捕れるのはハガツオ(サルダ)の仲間)。美食の帝国ローマ帝国ではカツオも盛んに食べられていたようであるが、逸話があまりない。
・鰹を表す漢字。堅魚、堅木魚、松魚、勝魚、勝男、加豆乎、「魚+(いぶす)」。
・「鰹」はもともと「うなぎ」を表す文字だったらしいと改訂新版世界大百科事典』(平凡社)に書いてある。
・カツオを「松魚(しょうぎょ)」と書くのは、切断したカツオ節の断面が松の年輪のように見えるから。松の木は皮が厚くて色が濃いため年輪がくっきりあらわれる。あるいは「かつおの肉の色が松ヤニの色に似ている」から、「松葉で燻して食べる」から、という説もある。「松竹梅」に通ずるので鰹食品は正月料理や結婚式の引き出物等の縁起物によく使われる。
・カツオの地方名;まんだら(北陸)、カジ(男鹿半島)、カツ(宮城)、ヤツ(宮城)、ヤタ(宮城)、ビンゴ(宮城)、さんぜんぼう(伊豆)、しょおばん・だいばん・ちゅうばん(鹿児島)
・カツオは他の魚にくらべ地方名が少ないという。それは税の貢納物として扱われる等して、古い時点で都での呼称が固定されたから。
・カツオの寿命は「8~12歳ぐらい」とか「6歳前後」とか「5~6」とか「8歳を越えるのはほとんど見られない」とか諸説ある。諸説を平均すれば一般的にカツオの命は10年ぐらいか。
 人は鰹の初物を食べると寿命が75日延びる(と江戸時代によく言われた)。
かつおの刺身(皮付き)
・泳ぐのを止めると死んでしまう魚。平均速度40km/時で泳ぐが、本気出せばこの倍はスピードを出せる。
・群れでエサ(イワシなど)を狩る。
・カツオの産卵地は南方海域の赤道周辺のかなり広い範囲。亜熱帯地域のカツオの産卵期は主に夏だが、熱帯のカツオは一年中卵を産む。フィリピン周辺ではカツオの産卵期を冬だとしているという。カツオは一歳を超えると産卵できる。しかし日本の周辺を回遊するカツオは3~4年ぐらい回遊してから南洋の産卵地に戻るといわれる。カツオは25℃以上の海の表層域で産卵し、一回の産卵数は30~70万個。卵の大きさは1mmぐらいで、およそ一昼夜で孵化する。
・死ぬと身体の側面と腹側に線が表れる。
生きているときはこの線は無いが、大漁旗等でカツオのイラストを描くときにこの模様がないとマグロみたいになってしまうため、勢いよく飛び跳ねているカツオの腹に、あえて縞を描き入れることが多い。
・実は、死んだときに出る「たて縞」とは別に、生きてるときにカツオが興奮状態になると、身体にくっきりとした「よこ縞」があらわれるという。釣られた直後はカツオの体表は変な見た目になっているんですって。
・海面を跳ねる(スキップジャック)のはカジキやイルカに追われているときで、釣り上げられるときも尾で海面を叩いて水面を躍る(スキップジャック)ので、その姿が和歌山県の串本やすさみ町の「ケンケン漁」の名の由来になった。
・ケンケン漁をおこなっているのは周参見(すさみ)港・串本港・田辺港の3つ。1月下旬から4月頃まで。「ケンケン」はハワイのカナカ語に由来しているそう。明治の初め頃にハワイの移民が串本に大量にやってきてケンケン漁が発明されるが、日本語の「ケンケン跳び(片足跳び)」も名前の由来のひとつであるという。串本が「ケンケン漁の発祥の地」と主張し、すさみは「ケンケン漁の本場」を名乗っている。田辺市では「餅かつお」を食べられる。ケンケン漁の特徴は一本釣りで丁寧に釣るため魚体にストレスがないとされ、釣って即座に神の業で活け締めし魔法のように氷冷するため鮮度が抜群に保たれる。串本町ではケンケン漁で獲れた鰹を「しょらさん鰹」というブランド名で売っている。しょらさんとは「愛しい人」「恋人」という意味。すさみ町でのブランド名は「すさみケンケン鰹」。
・カツオの名産は高知や和歌山だが、水揚げ量では1位が静岡県、2位宮城県、3位三重県、4位が東京。
・初がつおと戻りがつおは10倍ぐらい脂肪の量が違う。春の鰹の身の資質含有量は0.5%で、秋の鰹では平均で6%。大きな物ほど脂質は多くて10%ほどになるものもあり、味も濃厚になる。一般に現代では上りガツオよりも戻りガツオの方が人気が高い。
・かつおは血合いの部分に一番栄養がある。
・かつおの血合い部分にはタウリンが豊富。100gあたり790mg。血合い以外の赤身の部分には100gあたり80mgである。
タウリンは硫黄を含むアミノ酸の一種。
本来はアミノ酸ではないが栄養学の世界ではアミノ酸として扱われる。タウリンの効用は「肝臓機能の強化」「アルコール分解の補助」「心臓機能の強化」「コレステロールの低減」「動脈硬化の予防」「疲労回復」「血圧を正常にする」「目の衰えを防ぐ」等々。タウリンは水に溶けやすいため、カツオを煮たり蒸したりすると失われる。
人は1日に500mgのタウリンの摂取が必要。
・カツオ節のうまみ成分「イノシン酸(イノシン酸ヒスチジン)」を発見したのは小玉新太郎。大正2年(1913年)
彼は明治41年
(1908年)昆布とグルタミン酸ナトリウムの研究から「うま味」を発見した東京帝国大学の池田菊苗(きくなえ)博士の研究室生で、池田から指示を受けてかつお節の研究をした。残念ながら関東大震災(大正12年)で不慮死。
・実はイノシン酸を最初に肉汁のエキスの中から発見したのはドイツ人のユストゥフ・フォン・リービッヒ男爵。1847年。小玉新太郎が「発見」したのは「イノシン酸とヒスチジン塩の組み合わせがかつお節のうま味となる」というもの。しかし現在ではイノシン酸そのものがうま味の主体であるということがわかっている。
・イノシン酸は筋肉中にある運動エネルギーのもととなるアデノシン三リン酸(ATP)の分解によってできる。体内の糖からアデノシン三リン酸は生成されるが運動によって消費される。カツオは運動量が大きい動物なのでアデノシン三リン酸の保有量がもともと多い。カツオが死ぬとホスファターゼという分解酵素によってアデノシン三リン酸は分解され、やがてイノシン酸となる。
・カツオが暴れるとアデノシン三リン酸が消費され乳酸が生成されてしまうため、巻き網漁(=網の中で魚が暴れる時間が長い)よりは一本釣り(=釣ってすぐに締める)で獲ったカツオの方がおいしい とされる。
・日本の歴史でかつおが初めて出るのは『日本書紀』の「景行紀」とされる。治世53年目に景行天皇が亡き日本武(やまとたける)の偉業を偲んで東国巡りをしたとき、安房国で変な鳥の鳴き声を聞いたので探索に出かけたところ、結局その鳥は見つからず、磐鹿六雁(いはかむつかり)という人が蛤と鰹を料理して天皇に献上した。これを褒められたことによって磐鹿六雁は膳臣(かしはでのおみ)の祖となった。・・・しかし岩波文庫版の『日本書紀』の本文にはこの話は載ってない。(註で『高橋氏文』という書物に絡んで触れられている) かつおの刺身
・縄文の遺跡からも鰹の骨が多く出る。縄文時代にすでに外洋に出て漁をする技術があった。蜆塚遺跡からも鰹が出土している。
・カツオは傷むのが速いので、漁のあと、すぐに浜辺で干されたり煮たりされて保存されていたと考えられる。やがてこの「干す」技術が発達して保存に適したカッチカッチの魚を作れるようになり、「(かた)(いお)」が「カツオ」の語源となった。
・天文6年(1537年)の夏に小田原の海で北条氏綱が船に乗って漁師たちのカツオ捕り漁を見学していたとき、その船にカツオが飛び込んだ。氏綱は非常に喜んで「これは勝負に勝つうおである」と言い、その直後に上杉朝定(12歳)との合戦に勝利して関東平野へ進出することができたことから、その後武家では出陣前に鰹節(勝男武士)を供することが吉例になった。(『北条五代記』)。現代の「試合や試験の前にカツ丼を食べる」というゲン担ぎはこの風習に連なっていると言われる。
・江戸時代中期の大田蜀山人はこれを引いて「江戸にて初鰹をめずること、北条五代記に見ゆ」と書いている。(『仮名世説』)。
・徳川家康の好物は「かつおのたたき」であった。この時代の鰹のたたきは現代の物とは全然違い、「かつおの塩辛」のことで相模の国の名産だった。家康は本能寺の変後の「神君伊賀越え」で命からがら逃げてきたとき、伊勢の浜から乗った船の上で角屋七郎次郎が出した鰹の塩辛を食べて、これがクセになってしまったという。角屋はその後幾度も「かつおのたたき」を家康に献上した。(『貞享書上』)。※「家康が生涯で最も怖れた人」と「家康の大好物」と「家康が最も愛した人」は何十もパターンのある様式美の話題である。
・2021年11月に静岡県の焼津港で、長年に渡る大規模な漁港職員による組織的・慣習的な横流し事件が明らかになった。かなり大がかりな事件だったのに関わらず、この事件についてはきちんとした名前が付けられていない。2024年になっても報じられているのは「焼津のカツオ窃盗」という題名。
30年も前から「焼津で水揚げするとカツオの量が少なくなる」と噂されていたというのに。
・「かつおのたたき」は高知県で始まったと言われる。
・「手こね寿司」は三重県の郷土料理。
・大分県の郷土料理「琉球(りゅうきゅう)」はブリやサバやアジと共に、カツオでもよく作られる。
・宮崎県日南地方の郷土料理「こなます」は、かつおの身を練り込んだ丸い焼きおにぎり。「こね回す」が名前の由来。
・静岡県の御前崎の郷土料理「がわ」は、たたいた生のカツオ、刻んだきゅうり・梅干し・青しそなどを混ぜて、氷水の中で味噌で溶いた料理。漁師が舟の上でつくったのが発祥で、氷と一緒に混ぜるときにガワガワと音がするのが名前の由来だという。生でもカツオのミンチからおいしいダシが出る。(イサキやアジでも作られる)
たんたん(福田港の郷土料理)・静岡県磐田市の福田(ふくで)港の郷土料理「たんたん」。生のカツオに生姜やネギなどを混ぜ、庖丁でタンタンとたたきながら味噌で和えて作る。味噌の味が濃い。もともとは血合いが多く足が早くて刺身に向かぬソウダガツオを使って作る料理だったという。伊東市の「うずわ」も良く似たもの。(※うずわには味噌は使わず青唐をよく使う)
・高知県の銘菓「松魚(カツヲ)つぶ」はカツオ節の見た目を模してつくった飴。原材料は水飴・砂糖・桂皮松(シナモン)桂油(カシア油)等 で、カツオエキスは使われていない。カツオの味もしない。ツブというのは土佐弁で飴のこと。付属している鉛製の小ハンマーで小さく砕きながら食べる。明治20年に高知市で創業した山西金陵堂の創業者・山西房次郎が「高知土産の代表にしよう」と発起して考案したという。シナモンも高知県で生産している。
・浜松市民が最も愛する魚はカツオだが、どうして浜松がかつおの町になったのか知っている人はいない。
・『和漢三才図会』(正徳2年=1712年)巻51「江海中無鱗魚」の「堅魚」の項に、「鰹醢(たゝき)(俗に云う太太木);肉の端および小骨を((高+攵))き、和えて(シ小カラ)と為す。紀州熊野、勢州桑名、遠州荒井の者を上と為す。相州小田原と次いで奥州棚倉の醢、色が白く味佳し」と書いてあるので、江戸時代中期から新居(と舞阪港)はカツオの産地のひとつとして知られていたと思われる。
・浜松人が食べている鰹のほとんどは御前崎産だが(※平成30年の御前崎港のカツオ類の漁獲高は8,274t)、舞阪港産の鰹も少しだけある。(※平成21年の舞阪港のカツオの漁獲高は59t)。