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<華紋日月?>
赤門上古墳で昭和36年(1961年)に発掘された銅鏡は、通称を「華紋日月天王四神四獣鏡」といいます。
本によっては「華紋」を「はなもん」、「日月天王」を「天王日月」としているものもありますが、浜北市教育委員会による正式な報告書(昭和41年)では「華紋日月天王四神四獣鏡」と記してあって、なのでこれが正式名称なのだと思います。
ところが、これと同じ模様の「同笵鏡」は他に8面あるのですが、それらは赤門の上のものと同じ名前では呼ばないのです。
佐味田宝塚古墳のものも椿井大塚山古墳のものも、赤門上古墳と同じ鏡のことを、「三角縁唐草文帯四神四獣鏡」と呼んでいます。
赤門上古墳のものだけ別の名前にしているのはどうしてでしょう?
「華紋」と「唐草文」の違いは何なのか?
(といっても模様が同じ、同じ型から作られた鏡だから「同笵鏡」というのですから、この場合の「華紋」と「唐草文」は同じでなければおかしいのですが)
ありていにいえば、この鏡は「発見者がそう名付けたから」この名前です。
この古墳を発掘調査したのは静岡県立浜名高等学校の史学部生徒たちで、顧問は佐藤義則氏。報告書である『遠州赤門上古墳』の執筆者・下津谷達男氏のだれが発見者でだれが命名者なのかよくわからないのですが。
『浜北市史料1 遠州赤門上古墳』(1966年)より。
「背文は三角縁につづく外側より鋸歯文、波文、鋸歯文(二重)、櫛歯文と幾何学的図形を経て、「日月天王」の銘を方格内に持つ帯に至る。この銘帯は六方に方格を有し、その中間に円座の小乳を置き、華紋をひとつずつ繰り返し、内側に細かな半円弧を飾る突起を持つ。主文は二神、二獣、二神、二獣の順でめぐる複像式の四神四獣を内区に現わし、双獣は口に巨をくわえ、一方の獣の尾は長くのびている」
わたくしにはこれが「花の模様(華紋)」には見えないのですが、同じ本に、
「前述の華紋日月天王四神四獣鏡は、小林行雄氏の天王日月・唐草文帯四神四獣鏡にあたるものであり、同笵鏡と考えられるものは兵庫県吉島古墳二面、奈良県佐味田宝塚古墳に一面、京都府椿井大塚山古墳に一面と計四面発見されている」と書いてあって、すでに他で発見されている「唐草文帯」と同じ物だがこれはあえて「華紋」とした、ということがうかがえます。
「華紋」ってなんなのでしょう?
もしかして、この模様の種類は「唐草文」だが、この部分があることによって鏡全体の印象が「華っぽく」なるからこの名前にしよう、みたいなそんな感じなのか。そんなアートっぽい命名はあるのか?
さらに続けて同じ本に、
「三角縁神獣鏡の舶載が一種類五面を限度としたとすれば、この鏡式は全部発見されたことになる」
という記述があるのも注目ですね。この時点(昭和41年)では奈良の黒塚と滋賀の雪野山の鏡はまだ発見されていなかったのです。黒塚古墳の三角縁神獣鏡は平成9年に、雪野山古墳は平成元年~4年に発見。現在でこそ全国から三角縁神獣鏡は3000枚以上みつかっているから幻となってしまった話ですが、『魏志倭人伝』の「魏の王家から卑弥呼に鏡が100枚与えられた」の記述から、昭和40年代には、当時発見されていた三角縁神獣鏡の種類(がおそらく20パターン前後だった?)から推測された、「20種類の鏡面×5枚の計100面がある」のが“卑弥呼の鏡”だという説があったんでしょうね。だからこそ初の「五枚目の鏡」の発見であった赤門上古墳の鏡の発見は喝采された。