鄙びた古墳巡り
(※別窓で開きます)

 (個人的に)行って楽しかった古墳★
◎《陣座ヶ谷(じんざがや)古墳(北区細江町中川)

浜松でもっとも眺望の良い古墳。
赤門上古墳も、千人塚古墳も、入野古墳も、本来はどれも眺めのいい場所を選んで築かれたはずですが、現在では木々や高層建築物が視界のじゃまをしていて陣座ヶ谷古墳には及びません。
この古墳の眼下にはとても牧歌的で天国的な都田川中流域の平原が広がっています。
この古墳を建造するにあたって、葬られる予定の人は吟味に吟味を重ねて場所を選定したはず。
むかしの支配者が、自分が死んだ後にどう自分の民に仰がれ、また死んだ後に自分がどんな景色を見たいと望んだのか、考えると浪漫が止まりません。
◎《見徳(けんとく)古墳(北区都田町)
石室がとても見事な古墳。
古墳はとても小さいのに、石室は相対的にしっかりしている。この古墳が造られたとされる7世紀は古墳時代の末期です。さらにこの地帯は台地上で、地力には恵まれず景観だけ少し良いという地域です。古墳の大きさが規格として規定されていたとして、7世紀は遥か前にその規格が崩れていた時期であり、地力に恵まれないこの地域でこんな小さい古墳を見事に造りあげたこの豪族家の家系は、どんな権力をもっていてどんな財力と勢力でこんな古墳を造らせたのか、そんなことを考えさせられる古墳です。にも関わらず、この古墳には家庭的な暖かさも感じられます。(小さいのにしっかりとしているから)。
◎《火穴(ひあな)古墳(西区深萩町)

石室が赤くてとても見事。
石室は本来埋めて見えなくしてしまうものです、そんなもののために敢えて各地から赤い巨石を集めてきた古代の人の情熱に、熱い気持ちになります。現在は石室が露出しているので赤い古墳を眺め放題ですが、時間によってすごく赤く見える時間と、それほどでもない時間があるのが不思議です。
この地の伝説に、「火山が噴火するたびに付近の人々がこの穴に逃げ込んだので「火穴」と呼んだ」という伝説があるそうです。根本山は火山ではないので、実際ここに火が降り注いだことはなかったと思いますが、根本山は伝説の多い霊的な山なので、神話的な何かの出来事があったのかも知れませんし、地元の人は中世にはすでにここを墓所だと思っていなかったことも、考えてみると熱い。
◎《興覚寺後(こうかくじうしろ)古墳(浜北区根堅)
石室がとても見事な古墳。
前方後円墳なのに石室があるのはめずらしいとされる。
(実は石室のある前方後円墳は全国には数あるのですが)興覚寺後古墳の場合は、「前方後円墳の全盛が終わりかけたころ、次に流行する横穴式石室を取り入れた折衷型の古墳」とされているそうです。前方後円墳は横から眺めると「丘」なので、普通に、“城跡”のように自然地形を適当に加工して穴を開けて墳墓にしたと錯覚しそうになるのですが、ここの見事な石室を見ると、最初に平らな場所に大岩を数多く運び込んで精緻に石室を作り上げ、その上に大量な土砂を積み上げて「丘」としたということがわかって、古代の人の膨大な労力に圧倒されます。
興覚寺後古墳は中世に建てられた臨済宗方広寺派の天竜山興覚寺のうしろにあるからこの名前なのですが、現在はさらにそのうしろにある六所神社から入るのが一番近いです。神社から「後円部と前方部の境のくびれ部分」を乗り越え、円をぐるりとまわって「後円部の“横”に開いている口」から石室に入ります。この場合、古墳の「前」っていうのはどこなのでしょうね。
一般に、「方形」の部分が“前”で「円形」の部分が“後ろ”だから「前方後円墳」という名称なのですが、興覚寺後古墳の場合は、最も眺望の良いのは(現在は木々のせいでそんなに見えないけれど)墳口の開いている南東側です。前方後円墳の本来の「前側」とは、実は現在の「横側」なのではないか?
◎《恩塚山(おんづかやま)古墳(北区都田町)
石室がとても見事な古墳。
◎《二本ヶ谷(にほんがや)積石塚(つみいしづか)(浜北区染地台)
珍しい「積石塚」という遺蹟。


浜松市には古墳が数多くありますが、どれもが地味です。
大きな古墳は皆無で、形が面白そうな古墳や、被葬者が判っている古墳、副葬品が豪華な古墳、装飾壁画がある古墳などは、ありません。
にも関わらず、浜松の歴史を語る上で「古墳」が物語るものの位置づけはとても大きいと、皆が思っています。
大きさから見ると、隣りにある磐田市の方が大きいものが多く、古代の遠江の中心地が浜松ではなくて磐田であったことは確実です。(「遠江」の語源も“浜名湖”ではなくて現在は消滅している“磐田の海”であったという説が強い)
一般に古墳は“大きさ”に価値があります。
浜松の古墳は小さなものばかりです。
でもしかし、古代の浜松市域に大きな影響力を持った為政者が全くいなかったのかというとそんなはずもなく、逆に、隣の駿河の国や三河の国のように、重大な価値を持った巨大古墳が遠江(とくに浜松)にないのはどうしてなのか、遠江を飛び越して東国に巨大古墳文化が伝播していったのはどうしてなのか、古代における遠江の価値は何だったのか、そういうことを考えるのが意味があるのでは無いか、とまで感じさせます。

浜松で古墳巡りをするのに、一番目玉とするべきは何か。
それはズバリ「石室の探求」です。
浜松の有石室古墳もまた小振りなものばかりですが、巡ってみれば見事で個性的なものが多い。石室とは要は「お墓の中」であり、そういうのに喜んで入るのは普通は趣味が悪いのですが、弥生時代や古墳時代の人々の“死”に関する感覚は現在とはちょっと違う感じがして、そういうことを感じとりながらお墓巡りをするのも歴史の楽しさなのだろうと思います。

   石室に入れる古墳 ※実際には入れないが外から内部を眺められる古墳も含む
   見徳古墳、興覚寺後古墳、向野古墳、将軍塚古墳、高根山古墳、人形山古墳、
   恩塚山古墳、北岡2号墳、弘法穴古墳、火穴古墳、蛭子森古墳

   (これだけ巡れば浜松の古墳を制覇したも同然です)

(1)浜松市で最も重要な古墳はどれか?

それは「赤門上古墳」です。
たった56mしかない小さな前方後円墳で、地味で、石室も展示品も無く、行っても拍子抜けしてしまうかもしれません。それでも浜松で一番重要な古墳は赤門上古墳です。

上で「石室のある古墳を主に廻るべし」と言っておきながら、石室のない古墳をあげるのは申し訳ないですが、赤門上古墳が重要な理由古墳時代前期の古墳であり、三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)が出土した」からです。
赤門上古墳から出土した三角縁の鏡は、華紋日月天王四神四獣鏡(かもんにちげつてんのうししんしじゅうきょう)といいます。そもそも三角縁神獣鏡は「卑弥呼の鏡」だったという神話もある謎の存在です。もともと「100枚が魏から卑弥呼に贈られた」とされていた三角縁神獣鏡は、やがて日本各地からたくさん(540枚ぐらいも)発見されるようになり、さまざまな種類があることも分かってきましたが、この赤門上古墳の「華紋日月天王四神四獣鏡」の場合は、まったく同じ模様を持つ(つまり、同じ機会に同じ作者によって何らかの用途のために作られた)同笵(どうはん)鏡”という存在が、7つもあることがわかって、注目を浴びたのでした。
赤門上古墳出土の鏡の同笵鏡
1.佐味田(さみだ)宝塚古墳 (奈良県北葛城郡河合町) ※36枚の銅鏡が出土
2.黒塚古墳 (奈良県天理市柳本町)
3.椿井(つばい)大塚山古墳 (京都府木津川市山城町) ※36枚出土の銅鏡のうち、32枚が三角縁神獣鏡
4・5.吉島(よしま)古墳 (兵庫県たつの市新宮町) ※出土した6枚のうち2枚が同じ鏡
6.雪野山古墳 (滋賀県東近江市上羽田町) ※5枚の銅鏡が出土
7.出土地不明の三角縁神獣鏡 (東京国立博物館)

「三角縁神獣鏡のナゾ」は調べれば調べるほどよく分からなくなってくる複雑な問題です。
赤門上古墳の鏡の場合は、佐味田宝塚古墳、椿井大塚山古墳、黒塚古墳というとても著名な古墳の鏡と深い関係があることが存在意義が大きい。この3古墳はそれぞれ同時にとてもたくさんの銅鏡が出土して(そして共通する銅鏡があって)、三角縁神獣鏡の研究がとても進展する材料となった存在なのです。それらの画期的な著名な古墳と、われらが赤門上古墳は、どのような関わりがあったのか。
『浜北市史』では、赤門上古墳の三角縁神獣鏡は佐味田宝塚古墳の被葬者と深い関わりがあったことが示唆されていますが、個人的には黒塚古墳の方がワクワクします。佐味田宝塚古墳だって古代の勇族「葛城氏」のものだとされている古墳で悪くはないのですけど、黒塚古墳は“卑弥呼の墓”ともされる「箸墓古墳」のある「纒向遺跡」に隣接した地区にある古墳なのですから。
佐味田宝塚古墳、椿井大塚山古墳、黒塚古墳の3つの墓の被葬者は、それぞれ当時では名の知られた「鏡コレクター」であったとのことです。では赤門上古墳で銅鏡が1枚しか発見されていないのはどうしてか。他にもっといくつかの鏡が埋もれているのではないか。赤門上古墳が佐味田宝塚古墳と関わりが深いとされたのは、両古墳の建造時期が近い(4世紀後半)からですが、実は吉島古墳と椿井大塚山古墳の推定建造時期は3世紀半ば、黒塚古墳は3世紀後半です。一説には、古墳に埋められた銅鏡というのは全くの祭祀用で実用するためのものではなく、作られてすぐ埋められる物だということが定説になっています。赤門上古墳の三角縁神獣鏡の同笵鏡をもつ古墳の建造時期に、これほど開きがあるのはどうしてなのか。
三角縁神獣鏡に対してこれほどまで「大きな謎」があるとされるのは、実は現在「天皇陵だとされる墓」の発掘が全く許されていないからで、たくさんある“天皇陵”にはもっと信じられないほど沢山の三角縁神獣鏡をはじめとする多くの種類の銅鏡が埋められているはず。それらの調査が始まって初めて前方後円墳と邪馬台国の研究は始まるとされています。
いま以上に赤門上古墳の浜松史の上での重要性が解き明かされるのも、それからのはなしですね。

     ⇒「華紋日月天王四神四獣鏡」の研究


静岡県内で発見された三角縁神獣鏡
・赤門上古墳(浜松市浜北区内野)=華紋日月天王四神四獣鏡
・松林山古墳(磐田市新貝)=獣紋帯吾作二神二獣鏡
・銚子塚古墳(磐田市寺谷)=日月銘三角縁獣文帯三神三獣鏡
・連城寺経塚古墳(磐田市新貝)=日月唐草紋帯四神四獣鏡…万年山古墳(大阪府枚方市)出土の鏡と同笵
・新豊院山2号墳(磐田市向笠竹ノ内)=三角縁吾作銘四神四獣鏡…庭鳥塚古墳(大阪府羽曳野市)出土の鏡と同笵
・連福寺古墳(磐田市二ノ宮)=張氏作銘帯三神五獣鏡
・上平川大塚古墳(菊川市上平川)=(2枚)日月天王獣紋帯同行式神獣鏡、吾作銘帯三神五獣鏡
・午王堂山3号墳(静岡市清水区庵原町) =獣紋帯四神四獣鏡
(2)古墳にまつわる7つの伝説
1980~90年代には古代史の研究が進み、古墳に関する謎を合理的に解釈しようとしたさまざまな「仮説」が提唱されました。その後さらに重要な発見がいくつもあって研究は進み、それらの説とかみ合わなかったり覆すような事例が数多く出て、2000年代以降は「まちがった説」として反論の方が強くなったのですが、それでもなおいま「古墳のナゾ」を考えるにあたっては有益な「考え方」だと思います。
<一>.最古の前方後円墳“箸墓(はしばか)”は卑弥呼の墓である
<二>.三角縁神獣鏡は「卑弥呼の鏡」である
<三>.前方後円墳は大和政権と密接な関わりがある「形式」であり、形や大きさには厳然とした「規格」があった
<四>.前方後円墳は朝鮮半島にルーツがある
<五>.東国では初め在地豪族的な形式の「前方後方墳」の方が優勢であったが、やがて親大和朝廷の前方後円墳に“駆逐”された
<六>.弥生時代後期に“銅鐸”を祀っていた人々と、古墳時代に“銅鏡”を祀った人々は対立関係にある
<七>.前方後円墳は四角い方(前方部)が前で丸い方(後円部)がうしろ
このうちいくつかは間違い(議論がある)なんですけどね。
(3)どうして浜松の古墳はどれも小さいか
赤門上古墳の三角縁神獣鏡と同笵鏡の出た大和国の「黒塚古墳」は全長130mの前方後円墳ですが、奈良県では「あまり大きくない古墳」とされています。

(4)古墳の立地について