表紙浜松という地名の由来 / 合併都市浜松>

浜松の基礎知識


★平凡社『世界大百科事典』(1998年版)の「浜松市」の記述

静岡県南西部の中心都市。1911年市制。人口56万1606(1995)。市域の大部分は浜松平野の南西部および三方原台地,海岸砂丘地からなり,東は天竜川,西は浜名湖を境とする。1871年(明治4)廃藩置県により,一時浜松県の県庁所在地になったが,5年後に浜松県は廃止され静岡県に合併された。綿織物を主とする繊維,ピアノやオルガンなどの楽器オートバイ自動車の輸送用機械が三大工業である。藩政末期に農家の副業として北部で盛んであった綿織物業は,1889年の東海道本線浜松駅開業後は駅周辺に中心が移り,工場制工業に転換,全国有数の綿織物産地に成長するとともに関連の織機・染色工業の発達をみた。楽器工業は,明治中期に日本楽器製造(現ヤマハ)の創設者山葉寅楠が当地でオルガンを製作したことにはじまるが,伝統的な木工技術,天竜川上流の木材生産などを背景に発達し,現在では全国のピアノ生産量の9割を占めるに至っている。また,浜松市の製造品出荷額の4割強(1995)を占めるオートバイ,自動車などの輸送用機械工業は,本田技研,スズキ,ヤマハ発動機(磐田市)の三大メーカーを中心に傘下の部品工場が多数分布している。現在,地場産業の活性化と先端技術の集積をめざして<浜松テクノポリス構想>が進められている。農業はメロンなどの施設園芸,菊などの花卉類,セロリ・レタスなどの野菜類の生産が盛んで,施設園芸団地も建設されている。東海道新幹線,東海道本線,東名高速道路などが通り,JR 浜松駅前から西鹿島(天竜市)まで遠州鉄道が延びている。蜆塚(しじみづか)貝塚,伊場遺跡などの史跡のほか,観光地としては浜名湖岸の舘山寺温泉,フラワーパーク,浜松祭の際に大たこあげが行われる中田島砂丘がある。また,当地方に広く行われている習俗として盆に行われる遠州大念仏も有名である。(塩川 亮)

[浜松城下]
遠江国敷知
(ふち)郡の城下町,宿駅。平安期の《和名抄》に,敷智郡内の郷として〈浜松(浜津)〉があり,中世では<浜松荘><浜松御厨>などもみえるが,戦国期までは一般に引間(ひくま)としてあらわれた。1570年(元亀1)徳川家康が居城を岡崎から当地に移し,<浜松>と改めてからその名が頻出するようになる。90年(天正18)家康の関東転封後,堀尾吉晴が12万石を領して在城,さらに1601年(慶長6)松平(桜井)忠頼が5万石で入封した。浜松城下の本格的町割りは寛永期(1624~44)の高力忠房の時に始まり,武家屋敷と町人地が区別され,町人地は伝馬・人足役を負担する御役町と,職人居屋敷を中心とする無役町とから構成された。さらに17世紀後半の太田氏,青山氏の時期にその整備が進み,82年(天和2)には青山氏が町検地を実施し,町絵図を作成した。《浜松宿諸職記録》によると,この検地で確定した無役町内庄屋役屋敷は1963坪余,諸職人居屋敷は1万7009坪余,職人屋敷には大工,鍛冶,木恐,桶屋,紺屋,畳師,瓦師,塗師,絵師,傘屋,大鋸,檜物師,油屋,白銀師,仕立物師があった。
近世宿駅としては,1601年幕府により設定された。品川宿より29番目に当たり,《宿村大概帳》によると宿内町並み東西23町15間余,1843年
(天保14)の改めでは,宿内人口5964人,惣家数1622軒(うち本陣6,旅籠屋94軒)であった。当宿の助郷は1637年(寛永14)にはじめて指定され,94年(元禄7)の助郷改革で定助郷16ヵ村,大助郷44ヵ村となったが,1725年(享保10)には大助郷も含めて定助郷とされた。この地方の主要産業は,とくに近世後期に綿作が進み,木綿織物が発達した。なお国学も盛んで,幕末維新期には神官層を中心に遠州報国隊も結成され,東征軍に参加した。(本多 隆成)




Wikipediaの「浜松市」の項目


アンサイクロペディアの「浜松市」の項目
    とくに遠鉄に関する記述がすばらしい。


ニコニコ大百科の「浜松市」の項目


Chakuwikiの「浜松市のうわさ」


ご当地踏み絵の「静岡県」の項
    静岡県全体での扱いですが、半分は浜松市のことで、静岡県人にはこれらはすべて常識だ。